司馬遼太郎の風景
 肥前の諸街道
元寇防塁、虹の松原、呼子港、平戸(平戸瀬戸、オランダ坂、松浦史料博物館)、
九十九島、長崎港

  司馬さんが佐賀・長崎への旅をしたのは、1977年1月26日ー28日、3月14日ー17日であった。
  実際の旅の順序は違っているかもしれないが、紀行は、福岡市今津、唐津、呼子、平戸、佐世保、そして
  長崎へと展開している。

  司馬さんの旅は、3、4日くらいが多い。売れっ子作家としては、長期間留守にできなかったに違いない。
  この肥前への旅も、3日間と4日間の2回に分けている。この紀行の書き出しは、こうだ。

      肥前(長崎県・佐賀県)は梅岸線が皺(しわ)ばんで、大小の入江が多い。紀元前、稲作農耕
     という新文明が北九州一円にひろがったとき、漁労民たちは頑固に浦々に棲(す)みつづけるこ
     とを固執した。
          
      「あの泥田を這(は)いまわって苗を植えている連中と、おれたち浦人とはちがうんだ」とい
     う意識は、浦人の側にあったであろう。絶対的な多数を占める農民たちは、少数にしかすぎな
     い漁民をばかにしたにちがいない。農民を基盤にした律令制は、国家的な規模でその意識を助
     長した。

      が、中世になると、すこしずつ事情がちがってくる。海の時代がはじまるのである。

  
余談になるが、司馬さんが「街道をゆく」の取材で平戸をおとずれたのは1977年3月、平戸大橋開通の
  1ヶ月前であった。「男はつらいよ」の平戸ロケは同年秋と思われるので、平戸大橋開通以後である。

  司馬さんと寅さんが同じ年に平戸をおとずれたのは奇遇であり、司馬ファン、寅さんファンとしては、大変
  うれしい。

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福岡市西区今津海岸の復元された元寇防塁。
(1999/9/25)
 松原が、海にむかって登り勾配になっている理由がやがてわかった。元寇のころ、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士たちの築いた防塁があったからであろう。

 防塁は、当時、石築地(いしつきじ)とよばれた。ぜんたいに二メートルぐらいの高さだったが、その後、土砂にうずもれ、標高四、五メートルぐらいの丘状をなすようになり、やがていつのほどかその丘に松原ができ、砂の底の石築地は、数世紀以上も前にひとびとの記憶から消滅したのである。

 丘の上へ登りつめると、そこに地中の防塁が、二百メートルばかりの長さで、掘ってあらわにされていた。「掘れば、この松原のどこにでもあります。ここを掘ったのは昭和四十二年です」と、池氏はいった。氏はいまこの防墨の管理をしているというから、発掘のときから大切な仕事をされたにちがいないが、寡黙だからそのことは言われない。

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二丈浜玉道路から見た虹ノ松原、正面は鏡山。
(1999/9/28)

 この唐津湾の東端にさしかかると、湾の奥の渚をあざやかな繚でふちどっている虹の松凍がみえる。

 この湾の東端を走る道路は、海面からよほど高いらしく、ここから遠望すると、虹の松原という松の密林がいかに長大なものであるかが、パノラマのようによくわかる。

 長さ八キロあるという。二里である。もとは「二里ノ松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。

 山中からにわかに、海に出た。

 呼子である。浦の名を古くは殿(とん)ノ浦ともいった。呼子殿が宰領する浦という意味だったのかもしれない。

 海人たちの根拠地として、これほど格好なところもめずらしい。海は深く切れこんで澳(おう)をなしている。浦の両側は山でもってかこわれ、さらに港外には加部島(かべしま)がある。この大きな島が、外洋の風浪を避けるために衝立(ついたて)のように港口をふさいでいるのである。

 港内の自然景観は、薩摩の坊津(ぼうのつ)や、播州の室津といったような上代以来の港と瓜二つといえるほどに似ている。ただ、明治以後の船舶の規模からみれば港内は水溜まりのように狭く、結局は近代に入って近海漁業の漁港として生きるしか仕方がなくなったように思える。それだけに、港は古代以来の、どこか神寂びたにおいをしているといえるのではないか。

司馬さんは、呼子港を水溜まりのように狭い、と表現した。それほど狭いとは思えないが、確かに、大きな船を湾内に入航させるのは無理である。したがって、大型フェリーは湾のはずれに埠頭がある。

また、司馬さんは、どこか神寂びたと表現しているが、呼子港は独特の雰囲気を持っている。どこか懐かしく温かい。

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昔日の面影をとどめる西岸の旅館街(1999/9/28)
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呼子近海はイカの好漁場(1999/9/29)

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平戸瀬戸にかかる平戸大橋(1991/10/5)
 私どもが、本土側の平戸口に着いたのは、午後二時前であった。

 目の前に、海峡ー平戸瀬戸ーがある。古くは雷(いかづち)の瀬戸とよばれていたせまい瀬戸で、潮の流れがおそろしく速い。帆船時代、この潮流を突っきって目の前の平戸島にゆくのは船頭としてよほどの技術を要した。まず満帆を孕(はら)ませるほピの強風が吹かねばならない。その風むきも、海峡に対し直角に吹いてくれなければこまるのである。

 明治後は、汽船が往来している。私が十数年前、はじめて平戸にきたときは、古典的な形の小汽船が往来していたが、いまは大きなフェリー・ポートが二隻就航している。しかし、一ヵ月後の四月からは、海峡に架かった平戸大橋が開通するために、太古以来の船舶による海峡横断の歴史が、いわばおわるのである。

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オランダ商館跡、オランダ坂の石の塀。
(1999/9/29)

 オランダ坂とよばれるせまい石段をのぼった。すべて蘭館の構内の石段で、一般人を往来させるためにつくられた石段ではない。石段は、いわゆる「オランダ塀」によって海側に沿って囲われている。塀は目かくしよりも防壁を意識したかと思われるほどに頑丈なもので、石塁を一重(ひとえ)に築き、石と石の間をシックイで接着し、さらにはシックイでもって外面の化粧まで施されていた感じである。まことに堅牢にできている。

 この塀は、ふつう言われるように、目かくしだけではないであろう。いつこの商館をスペインなどのカトリック勢力から攻撃されぬともかぎらないという防衛上の懸念が、この頑丈な塀にあらわれているのではないか。塀は、海上からの砲撃より石段を守るためにおそらく存在しているのであろう。いざという場合に、石段は丘の中
腹の商飴長宅へ人々が走るための唯一の道路となる。石段を上下する人間の生命が、この防塁によって保護されるという期待があったのにちがいない。

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松浦家の御館(おたち)、まさに城郭である。
(1999/9/29)

 どこへ行くにも、坂を上下しなければならない。このあと、いったんオランダ坂の石段を降り、しばらく平地を歩いた。ほっとした。しかしほどなく「お部屋の坂」とよばれている坂をのぼらねばならなかった。

 土地では、この坂をのぼりつめたところにある建物を、「御舘(おたち)」とよんでいる。領主の屋敷を、御館などとはよばず、タテとかタチとかとよぶ風は源平時代からのものかと思える。じつに古風なよび方といっていい。

 平戸城とはべつである。海に突出した平山城であるこの城は慶長四年(一五九九)の築城で、江戸初期(宝永四年・一七〇七)に改築され、白亜の三層の天守閣を上げてはるかに海峡にのぞんでいるが、しかし松浦家の当主の住居ではない。住居は、それ以前の城だった「御館」なのである。

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石岳から見た、真冬の九十九島の夕暮れ(1991/1/11)
 「石岳へ行きましょう」と、急に目を細めて言った。そのことは、昨夜もきき、ことわった。しかしきかなかった。言い出すときかない人のことを土佐ではイチガイというのだが、北村さんは佐世保のイチガイさんだった。私は、石岳
とは逆の横瀬へ行かねばならない、と哀訴するようにいった。

 結局、かつて何度か見た九十九島という、ひどく絵ハガキじみた景色を見た。石岳の崖の上に立ちながら、なぜ自分はいまどきこんな景色を見ているのだろう、と思ったり、ひるがえっていえば人生というのは所詮この種のことばかりではないか、とみずから慰めたりした。

このくだりは、おもしろい。司馬さんにとっては、背後に物語のない、ただ美しいだけの風景は退屈なだけだったにちがいい。


横瀬浦史跡公園にある『街道をゆく』の碑。
 たちまち横瀬は開港場として栄える一方、大きな会堂が建ち、信者がふえ、その信仰の火は、横瀬と水路をむすぶ各地方に広まった。純忠は、教会をまもるために重臣を横瀬に常駐させる一方、みずからも受洗し、ドン・バルトロメオという霊名をもらい大名として受洗者になった。


イエズス会が建てた天主堂跡から横瀬浦を見る。

 長崎への道は長かった。ポルトガル船が平戸にはじめて入って交易したのは、一五五〇年(天文十九)である。その後、横瀬浦、福田浦といったように試行錯誤を経、平戸での初投錨からかぞえると、二十年後に理想的な良港である長崎港を得るのである。

 ポルトガル船が、はじめて長崎湾の奥深くに錨を投げ入れたのは元亀元年(一五七〇)で、翌年、貿易基地にし、大村純忠が町割をし、いまの長崎市が出発する。

 いまの長崎を歩いていても、南蛮時代の遺跡はなにひとつなく、結局、ホテルで寝ころんで当時のことを空想しているほかない。強いていえば、ポルトガル人たちを導き入れた長崎湾の水だけが、当時と変ることがない唯一のものである。


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伊王島行きの船から長崎湾の神の島付近を望む。
左手の白い建物が神の島天主堂、右手の岩の上には岬の聖母像が立っている。
福田浦は左手の山を越えた先になる(1993/10/10)


[司馬遼太郎の風景]