司馬遼太郎の風景
 
  北海道の諸道
函館市/ハリストス正教会、上磯町/トラピスト修道院、江差町/開陽丸/鴎島、
石狩町/石狩浜、月形町/
旧樺戸集治監旭川市/旧第七師団偕行社

  司馬遼太郎さんは、1978年9月3日から12日まで北海道を旅している。
    函館から松前・江差へ、札幌から石狩へ、そして、旭川から石北峠を越え陸別まで足をのばしている。

  この旅の目的が何であったのかさだかではないが、紀行のかなりの部分を、榎本武揚と開陽丸に関する
    記述が占めている。

hokkai-harisutosu.jpg (191498 バイト) 函館の町で美しい建物の一つは、元町の坂の途中にある「函館ハリストス正教会」である。

 せまい坂をのぼると、左手に柵があり、柵のむこうの曇った空に、水色がかったビザンティン風の会堂と塔がそびえていた。

 塔の屋根はあざやかに緑青が吹いた銅ふきで、その上に玉葱形の冠がのっかり、最先端に十字架がかかげられていた。

 十字架に函館名物のカラスが一羽とまっており、私どもが門前に立つと、にわかに啼いた。


教会の造形美/ハリストス正教会
  夕暮れの函館ハリストス正教会 96/6/29 NikonF4s/24-50mm

  エルサレムにはじまるキリスト教は、西のローマカトリックと東のギリシャ正教に分かれた。
  そして、ギリシャ正教はロシアに入った。日本では、ギリシャ正教会とはいわずハリストス正教会という。
    ハリストスとは、キリストのロシア語発音である。
      
  司馬さんは、終戦直後に、京都にあるハリストス正教会に出入りし、同教会の神父と親しくしていた。
    特定の宗教を持たない司馬氏であったが、神父との雑談が好きだったとのことである。
  京都ハリストス正教会の建物は今も健在である。

  京都での神父との思い出が、この北の旅で、司馬さんの足を、函館ハリストス正教会へ向わせたのであろう。

hokkai-torapisuto.jpg (277900 バイト) 「修道院が見えますよ」と、当別を通過するとき、F君が山の中腹を指さしてくれた。

 その西洋菓子のような建物を遠望したとき、二十余年前に、あの中腹の修道院で出されたクッキーの旨かったことを思い出した。

 沈黙と祈りと労働を戒律とするこの修道院には、どこか近寄りがたいものをわたしは感じていた。

 1993年に発行した写真集『天主堂巡礼』を送ったところ、五島列島出身の修道士の方などがご覧いただいた、という手紙と修道院の絵葉書が届いた。

 その日、1996年6月29日、ある修道士と約束をとり、院内を拝見させていただくことになっていたが、すれちがいで実現しなかった。

  厳格な雰囲気がただようトラピスト修道院 96/6/29 NikonF4s/24-50mm

hokkai-kaiyo,aru.jpg (194235 バイト) 開陽丸が江差沖にあらわれたのは土方と約束した十一月十五日(新暦十二月二十八日)の夜明け近くであった。

 対岸の山々の雪が黎明とともに白くうかびあがってくるのを榎本は艦首に立って眺めていたが、山を背負って海浜に人家をならべる江差は、なにやら静かであった。

 江差港は、港外の鴎島(弁天島)が港を風浪からまもっている。松前藩はかってこの島に砲台を築いていたが、この朝、その砲台も沈黙して
いた。

 この夜、1868年12月28日、嵐がやってきて開陽丸は打ち砕かれ沈没した。
  江差港に復元された開陽丸。 96/6/30 NikonF4s/24-50mm

hokkai-kamomejima.jpg (184849 バイト) 江差沖で沈没した開陽丸の遺品を引き揚げて、青少年研修施設として復元した開陽丸に展示している。

 鴎島は、鴎が翼を広げたように江差江港沖に横たわっているが、今は堤防で結ばれ陸続きになっている。

 鴎島燈台付近は公園として整備され花々が植えられていた。霧雨の中で、真紅のハマナスがゆれていた。

 この年の北海道は、梅雨のように雨が多く、1日おきくらいに雨に降られた。それでも、アカシヤやハマナスの花に出会うと、北海道を旅しているうれしさを実感できた。
  鴎島が荒れる海から江差港を守っている。96/7/1 PentaxZ5p/17-28mm

hokkai-isikarihama.jpg (213599 バイト) 道路は石狩平野を北上して石狩町の海岸に出る。この国道231号線は、ふつう石狩街道とよばれている。

 まわりはまことに北海道らしい大平野である。しかし、農業や林業においては、見かけほどの利用価値はないらしい。

 石狩川とその支流群が土砂を流してこの平野をつくったのだが、ぜんたいに排水がわるく、遊水が湿原をつくり、さらにその湿原が一面に泥炭層を形成しただけでなく、南半分は火山灰がおおっているというぐあいで、いまのところ排水できる場所だけが耕地になっている。

 「豊かに稔れる石狩の野」(北大寮歌)というのは現実ではなく、やがてそうしたいという理想を歌ったものかもしれない。

 
実際に石狩川の河口付近を歩いて見ると、一面の平野である。司馬さんが歩いたのは南岸であるが、わたしは、ハマナスが見たくて北岸をたずねた。

 砂地には雑草が生え、あちこちにハマナスが咲いていた。ハマナスは、6月から8月にかけて花を付ける。

 ハマナスの咲く浜には、赤と白の縞模様の石狩燈台がぽつんと立っていた。
  ハマナスと石狩燈台。 96/7/3 PentaxZ5p/17-28mm


旧樺戸集治監本庁舎。 06/5/29 *istD    
 木造板壁の黒っぽい和洋折衷の建物である。なにげなく近づいて、玄関への十段ばかりの石段がすりへっていることに気付いた。どの段もはげしくくぼんで波うっており、いったい延べにして何千人の足に踏まれればこうなるのかとおもうと、息をのむ思いがした。

 集治監とは監獄のことであり、月形町には樺戸監獄があった。明治14年に創設され、大正8年に廃監された。

 現在は、月形樺戸博物館として、本庁舎の建物が保存され、続きの別棟に近代的な樺戸博物館本館があり、樺戸監獄や北海道開拓に関連した資料が展示されている。


旧第七師団偕行社。 06/5/31 *istD
 森の中に入ると、白ペンキで塗りあげられた堂々たる木造二階建洋館が目についた。旧第七師団の偕行社だという。

 この偕行社の建物の横に、刈りこまれていない樹木が枝を乱雑にのばしている。その林のかげに、屯田兵の兵屋が一戸建っている。

 司馬さんがここをたずねたのは屯田兵屋を見るのが目的だった。当時、旧第七師団偕行社は旭川市立の郷土博物館として使われていて、敷地の一角に屯田兵屋があったようだ。

 今は彫刻美術館になっていて、屯田兵屋は見当たらなかった。他の場所へ移設されたのではないだろうか。