司馬遼太郎の風景
2003

北国街道とその脇街道

 気比の松原金ヶ崎城趾板取 ・余呉湖
 
03.5.19-20 CAMEDIA

往路は、琵琶湖の北岸の海津から北上し、愛発越えをして敦賀に出たい。このほうが、はるかに街道としてふるい。私の推測にあやまりがなかれば、前記の北国街道のうちとくに椿坂峠・栃ノ木峠をへて越前今庄に降りてゆく街道は、織田信長が柴田勝家に命じて開かせたものであるらしい。そこへゆくと愛発越えは、奈良朝のころは国家がとくに重視していた官道であっただけでなく、有史以前からあったらしいということは、いくつかの傍証によってそのようにいえる。

司馬さんが 北国街道を旅したのは、1972年か1973年、季節は冬で、2月の中旬であったと思われる。琵琶湖北岸の海津から、敦賀、武生を経て、栃ノ木峠を越えて木ノ本で終っている。






                  金ヶ崎城趾・月見御殿跡からのぞむ敦賀湾→
         

 

気比の松原

海は松原越しにながめるのがもっともいいという『古今』『新古今』以来の美的視点が牢固としてわれわれの伝統のなかにある。

この点、気比の松原をもつ敦賀は日本のどの地方よりもめぐまれている。弓なりの白沙の汀にざっと一万本の松がおいなる松原をなしている景観というのは、ちかごろの日本ではもはや伝統の風景というより奇観ではあるまいか。

松原に、わずかに日照雨(そばえ)のようなものがふりかかっている。松原越しの海は、水平線が白かった。越中でも加賀でも越前でも、北陸の海は鉛のように白いというが、この2月21日の敦賀の海はわずかに緑色がかっているようにおもえた。その緑色のぶんだけ、海にも春がきているようである。

金ヶ崎城趾

金ヶ崎城趾は、敦賀湾を抱く岬である。この南北朝のころの城趾にのぼると、敦賀湾が見おろせる。

敦賀港という北海にひらいたこの湾口が、昔もいまも、シベリア・沿海州からやってくる人間や物産の受け入れ口でありつづけていることが、あたりまえのようでもあり、伝奇的なようでもある。


金ヶ崎城趾の最高地は、標高86mで、かつては月見御殿を配した本丸があった。歩くのが苦手な司馬さんであったが、ここまで登って敦賀湾を眺めた。






 

板取

栃ノ木峠へむかう板取の村の道は、ゆるやかな登り坂であった。武生盆地ではとっくに消えている雪が、この村のみちの両側の深い杉木立のなかに残っていた。

板取をすぎたころから、道は路傍を草で縁取りされた地道になった。いかにも古街道といった感じで、道の肌をはたはたと掌でたたいてみたいほどの衝動を覚えた。

栃ノ木峠越えの国道は今は完全に舗装されているが、司馬さんが通った30年前は地道だった。

左の画像は下板取の集落。国道が出来る前は、この道路を通っていた。

余呉湖


余呉湖の「天女の衣掛柳」。この柳は中国系で、日本の
柳とは樹形が異なり柳には見えない。
陽が夕霧のむこうで薄らぎはじめるころ、右前方の水が光るのを見た。余呉湖である。かねてこの湖畔ほど上代の寂びた景色はないと思っていたが、近づいてみると、およそ余呉の感じとは別な、たとえば信州のどこかの湖畔にあるような軽食堂ができていた。

この土地に伊香刀美という男がいて、あるとき湖のそばで水浴をしている八羽の白鳥をみた。近づくと、天女であり、かれはおどろき、かつ恋いこがれ、ひそかに犬に命じて天羽衣を盗ませた。天女たちはおどろいて天に昇ってしまったが、しかし羽衣を盗まれた天女だけは地にうずくまってどうすることもできず、やがて伊香刀美の妻になり、四人の男女を生むにいたった。ところがあるとき彼女は伊香刀美がかくしておいた羽衣をみつけ、それを着て天に帰ってしまった、という説話である。この古い説話から、彼女たちがあるいは渡来人の娘たちではないかと想像するひともいる。