司馬遼太郎の風景
 壱岐・対馬の道 勝本、万関瀬戸、海神神社、天神多久頭魂神社、佐須奈   2000.12.11-15

  九州島の北方、朝鮮にむかい、波涛を浴びてうかんでいる二つの島は、古くから「国」の処遇を受けてきた。
  上代、国郡の制ができたとき、壱岐、対馬、それに種子島といういずれも小さな島が、それぞれ一国として遇せられたのは、
  九州が畿内政権にとって特別な地域だったことを想像させる。

  『古事記』の冒頭に国生みの話が出てくる。
  「次に伊伎島(いきのしま)を生みき」「次に津島(つしま)を生みき」とあり、格別な記述はないが、この二つの島が上代から
  十分の認識をもたれていたことは想像できる。


  司馬さんが壱岐・対馬を旅したのは、1977年11月17日から20日の4日間とされている。
  17日に大阪の伊丹空港から福岡の板付空港へ。
  板付で東京からやってくる作家の金達寿(キムダルス)さんたちと待ち合わせ空路壱岐へむかう。

  17日から18日にかけて壱岐を歩き、18日の夕方、船で対馬へ渡る。
  19日、20日の2日間、対馬に滞在している。20日に、対馬空港から板付経由で帰られたのではないかと思う。

  筆者は、2000年12月11日、博多港からフェリーで壱岐へ。12日に対馬へ渡り、15日に帰途についた。
  司馬さんがおとずれたときは海が荒れていて、壱岐から対馬への2時間の船旅はつらかったと書かれている。
  筆者の場合も、12月11日は4m近い波でかなり揺れがはげしかったが、幸い、船酔いをせずにすんだ。

  2015年5月、14年半ぶりに壱岐・対馬をたずねた。前回取材できなかったところを含めて補足した。

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印通寺港の唐人神
2015/5/15


   小さな湾が、口を南にひらいている。
   湾口に妻ヶ島という、湾の面積よりも大きな島が風防ぎのためにうずくまっているから、格好の投錨地だったのだろう。
   
   港の東端が小さな丘になっていて、叢林の生えるままになっている。
   登ってみると十五、六歩で、上に達した。そこに笹や雑木にかこまれて、いかにも土俗神といったふうな粗末な石祠がある。
   「唐人神」と、たてふだが出ている。

   
唐人神は流れ着いた唐人の下半身を漂着神として祀ったもので、当初は大漁祈願として信仰されていたが、
   下半身を祀っていることから、夫婦和合、良縁、安産の神となったようだ。


南に妻ヶ島がよこたわる印通寺漁港。


唐人神のある森

 ■ 新羅使・雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓 2015/5/15

   天平八年(七三六)、遣新羅使の一員として、潮路を朝鮮にむかってゆく途中、壱岐で病死した若者(と想像する)は、
   雪連宅満
という名である。

   ともかくもこの遣新羅使は日本の政治史にはどういう貢献もしなかったが、
   大阪湾を出て以来、船泊りのつどおそらく全員が歌を詠み、そのうちの秀歌を記録し、保存し、ついに帰還まで百四十五首
   という大量の秀歌を「万葉集」に入れたということで、文学史上の大きな業績をのこしたことになる。

   
「万葉集」の巻15には次のように書かれている。
   
壱岐の島に至りて、雪連宅満のたちまちに鬼病に遭ひて死去にし時に作る歌一首 并せて短歌
   天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと
   たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国
   いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君  
巻15−3688
   反歌二首
   石田野に 宿りする君 家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ  巻15−3689
   世間は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 我が恋ひ行かむ  巻15−3670

   
新羅使の墓が印通寺港の北西、石田の集落にあり、司馬さんもおとずれている。
   途中までは案内標識があるが、墓の近くに標識がなく困っていると、近くの家の人が案内してくださった。
   小さな墳土の上に石塔がたてられた粗末なものだった。


万葉「石田野」の石碑の右手に遣新羅使の墓がある。


新羅使・雪連宅満の墓。

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岳ノ辻(たけのつじ)
2015/5/15

   壱岐は、どこを歩いても風が野と段丘と林を吹きわたっている。
   大和路のように野の中にいきなりガソリンスタンドやドライブ・インが出現するということはない。

   岳ノ辻までのあいだ、かって東国の防人が壱岐に駐屯させられたことを思ったが、かれらが見た景観といま私どもが見ている
   それとさほどのちがいがないのではないかと思われた。


岳ノ辻から一支国王都とされる原の辻遺跡方面を見る。


防人の時代ののろし台を復元したもの。


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勝本(かつもと)

   ようやく壱岐の北端の勝本の浦に達した。そのむこうはもはや対馬海峡である。

   勝本の入江を南から太い腕をのばしたようにして抱いている山にのぼると、木造船時代、ここが絶好の錨地であったことがわかる。
   港口の風よけとして、ビスケットをくだいたようにいくつもの島が散在している。

   その入江を見おろす墓地に、俳人河合曾良(1649−1710)の墓がある。


   壱岐勝本は、芭蕉に同行し「奥の細道」を旅した曾良の終焉の地である。
   このことは、司馬さんの「壱岐・対馬の道」を読んではじめて知った。

   豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に築いたという勝山城址の城山公園には、曾良を顕彰した句碑が立っている。
   句碑のそばには、諏訪大社のミニチュアの御柱(おんばしら)が立っていた。
   曾良が生まれたのが諏訪、勝本町とは姉妹都市となっている。

   司馬さんは朝鮮通信使を接待した神皇寺跡にも立ち寄っている。


勝本港。


曾良の句碑。春にわれ 乞食やめても 筑紫かな


朝鮮通信使を接待した神皇寺跡。 2015/5/14

 ■ 厳原 2015/5/12
   
古代から与良とよばれたこの地は、室町時代、対馬国の守護大名の宋氏がここに府中を置いたときから、都邑としての歴史が
   はじまる。宋氏はひきつづき江戸体制の大名となり、十万石格の国持大名であった。厳原もまたひきつづき城下町であった。

   司馬さんはタクシーで城下町の名残りをのこす小路を通っただけで早々に対馬交通ホテルに入った。
   したがって、宋氏の菩提寺である万松院にも立ち寄っていない。


武家屋敷跡。


厳原本川沿いの風景。左の石畳の道は港へつづく国道。

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万関瀬戸(まんぜきせと)
   

山から山に橋がかかっていて、足もとのはるか下が定規で線を引いたような平行線よりなる行儀のいい運河が掘り切られている。土地では、万関瀬戸という。明治の海軍がつくったものである。

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司馬さんがおとずれたのは1977年。
当時は2代目のアーチ橋がかかっていた。
現在の橋は3代目で橋の形態も2代目とは
違っている。

 

 万関橋の上から瀬戸の西側を見る。 2015/5/13

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海神(わだつみ)神社

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平坦な道を歩くうちに、石段になる。山腹を大きく削って石段をたたみあげて行ったもので、隅角まできてやっと山頂かと安堵すると、方角を変えてあらたに石の階(きざはし)が天にのぼるような
勢いで重ねられている。


と、司馬さんは海神神社の石段の立派さをたたえるとともに、その長さを、天にのぼる、と表現している。

実際に歩いてみたが、それほど長い石段ではなく鳥の鳴き声が豊かで、たいくつしなかった。


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天神多久頭魂(あめのたくづだま)神社

ikitusima-takududama.jpg (121473 バイト) 神社は天道山を背負い、そのふもとにある。古代信仰どおり、山そのものが神である。山は原生林でおおわれ、何者も斧を入れることができない。

古神道がそのまま生きている対馬だけに、この神聖山を犯す者など、古来ひとりもなかったにちがいない。かって本州の自然もこの信仰で守られてきたのだが、いまはあらかた儚くなった。


神社は佐護川の河口付近にあった。河口の先はもちろん海で、韓国へ通じる海である

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佐須奈(さすな)


   佐須奈の港は、対馬の最北端ではない。しかし釜山港にもっとも近い。
   町中を歩くと、細流の河口は江戸期の構築らしい石垣でかためられていて、ただの漁村ではない感じがする。

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佐須奈では水辺に住宅がある。
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上県町のシンボル・ツシマヤマネコの像。


[司馬遼太郎の風景]