司馬遼太郎の風景 因幡・伯耆のみち 因幡国庁跡、鳥取砂丘、白兎海岸、夏泊、倉吉、伯耆大山、
美保関燈台

  司馬さんが鳥取から米子にかけての海岸沿いを旅したのは、梅雨入りの気配が漂う1985年5月26日から
  30日の5日間であった。中国道を西に向かい、岡山県の津山から国道53号線で黒尾峠を越えて、夕方5時
  ごろ鳥取県に入っている。今は黒尾トンネルの前にループ橋があるが、当時もすでにループ橋があったのでは
  ないだろうか。

  わたしも何度かこの海岸線を旅しているが、関西に住んでいた司馬さんとは逆方向に行くことが多い。つまり、
  米子から倉吉を経て鳥取へというルートである。今回、はじめて因幡国庁跡など大伴家持の足跡をたずねるこ
  とができた。

   因幡国庁跡

    歌人大伴家持(七一八?ー七八五)が、因幡の国守としてこの庁に赴任してきたのは、天平宝字ニ年(七五八)
    六月のことで、家持はすでに四十の坂を越えていた。この時代の四十は、いまの六十にあたるだろう。それよ
    り七年前に少納言に任じられたことをおもうと、この因幡ゆきは左遷というほかはない。家持は、その歌から
    察し、その人物は諸事大ぶりで、品がよく、人柄がやや甘っぽくて、権力闘争にはむかないたちだった。

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建物の位置を示すクイが雨に濡れていた。2000.4.28    万葉仮名で書かれた家持の歌碑。

    家持が天平宝字三年(七五九)正月元旦に因幡国府で詠んだとされているのが、万葉集最後の歌、巻二十・四五
    一六である。

      新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
      
新年之始乃波都波流能    家布敷流由伎能伊夜之家餘其謄

    家持の歌でよく知られているのが、天平勝宝五年(七五三)ニ月に詠まれた孤独感ただようこの三首である。

     春の野に霞たなびき うらがなし。 この夕光(ゆうかげ)に 鶯鳴くも       (巻十九・四ニ九〇)
     わが屋戸(やど)のいささ群竹(むらたけ)。 吹く風の音の かそけき この夕べかも (巻十九・四ニ九一)
     うらうらに照れる春日に 雲雀あがり、 こころ悲しも。 独(ひと)りし思へば   (巻十九・四ニ九二)

   鳥取砂丘

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    夕暮れの鳥取砂丘。砂丘は日本海と夕陽を背に黒々と横たわっていた。2000.4.28

    千代(せんだい)川が、太古以来、土砂をながしつづけて、その河口付近の海は遠浅になっている。波は沖から
    うちよせてくるのだが、水深の深い海岸だと波は磯まできてくだける。が、遠浅の場合は、ちがう。波は浅い
    沖で波頭(なみがしら)を白くたててしまい、そのとき底砂をすこしずつ陸(おか)へうごかすのである。その運
    動が、ながい歳月のなかで、海岸線に砂丘をつくるらしい。

   白兎海岸

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「大黒さま」の歌碑が立つ。後方が淤岐ノ島。
2000.4.13
「この海岸のちょっとむこうに、淤岐(おき)ノ島という小島もありますよ」 藤谷氏は、地図を見ながらいう。「見にゆきますか」といってくれたが、見にゆくには、道路を海の方角にむかって横切らねばならない。


「せっかくコーヒーにありついたんだから」
と、道路一つを横切ることを怠った。道路は崖をきりひらいてつくられている。従って白兎海岸の白い砂浜は、崖である道路上から眼下に見おろすことになる。

淤岐ノ島というのはよほど沖かと思ったが、砂浜からわずかな(子供でも泳ぎつける)距離にあり、その大きさも岩礁というほうが妥当である。

   夏泊

     まわりをながめて、(これだけが、わが夏泊港か)と、拍子ぬけするほど、港としての規模は小さい。

     なにしろ、巨大な日本海がはるかに押しよせてきて、この夏泊の岩壁や岩礁にぶちあたるのである。岩肌は
     みな波で研(と)がれてしまって、目の前の水成岩の岩礁などは、岩の層でもやわらかいところはみな侵食さ
     れ、大皿を乱雑に積みあげたようなかたちになっている。

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     防波堤で囲まれた夏泊の港。  防波堤の外は、岩礁に波が砕け散る荒れた日本海。 2000.4.13

   倉吉    倉吉観光情報(倉吉市観光協会)

inahou-kurayosi.jpg (139756 バイト) 倉吉では、町を見おろす山手にのぼってみた。

元和元年(一六一五)、幕府の命で破却された打吹城のあとであることは、すでにのべた。

その構造の名残りは、山頂(二〇八メートル)に残っている。私どもはそこまでは登らず、山麓の台地を歩いている。もっとも低い場所に市役所があり、すこしのぼれば区検察庁がある。

それよりもさらにのぼれば倉吉博物舘や倉吉歴史民俗資料館がある。

司馬さんが倉吉をたずねたのは、緑が深まっている頃であった。櫻の季節におとずれていたなら、打吹公園を散策したことだろう。2000.4.13


   伯耆大山

     さて伯耆大山という雄大なものを海上からながめてみたいとおもった。

     米子の宿で地図をひろげてみると、北方に島根半島が東西によこたわっている。半島というより、
          大きな地塊というべきものである。

     「ここまでゆきましょう」と、編栗部の藤谷氏にいった。

     なにか、出雲神話のなかの国引きの力持ちになったような気がする。力持ちの神が、綱をはるかな
          のかなたに飛ばし、そこの陸地に結びつけ、残りの綱を大山にからげて「国来々々(くにこくにこ)」
          とひきよせてきた。それが島根半島(出雲・島根県)だという。

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     島根半島から見た残雪の伯耆大山、手前は境港の燈台。 1994.4.9

   美保関燈台

inahou-miho.jpg (151268 バイト) 「ふしぎなところにきましたね」
須田さんが、ふりむいた。

ここだけに、十九世紀の西洋が小天地として存在している感じなのである。

石造・赤屋根の官舎には、風格のある玄関がついている。そのそばに植わっている木までが、日本の木ではない。ゴッホが好んで描いたフランスの糸杉なのである。


明治31年(1898)に建造された石造りの美保関燈台。 94.4.9