司馬遼太郎の風景 南伊予・西土佐の道 大洲、卯之町、宇和島、松丸、目黒山形模型

   版籍奉還の際、維新政府は、県名をえらぶのに苦心があったらしい。その点、愛媛県は幸運だった。伊予は愛比
   売で、文字どおりいい女という意味である。ずいぶん粋な言葉を県名にしたものだと思うが、おそらく松山の教
   養人が『古事記』を披(ひら)いて、その判断資料にしたのではないか。

     司馬さんが愛媛県南部の旅をしたのは、1978年6月15日から19日の5日間である。大阪空港から
     松山空港へ、大洲、宇和島、松野などを経て、土佐中村で旅を終えているが、その後、どういうルートで
     帰宅されたのか、さだかではない。梅雨時の旅ではあったが、文面には、春霞のようなほんわかとした雰
     囲気がただよっている。

   大洲 2001.9.15 伊予の小京都・大洲

iyotosa-oozu.jpg (90408 バイト) 車は、城下町時代のせまい道路に入った。さらに左折していっそう狭い道路に入ったとき、いきなり明治時代にもどった感じがした。右側にはいかにも明治建築といった小さな赤レンガの建物が両側の民家に密接して建っており、看板をみると大洲の商工会議所らしく、現役としてつかわれていた。


赤レンガの建物は、明治34年(1901)に大洲商業銀行として建設された。司馬さんがおとずれたときは商工会議所として使用されていたが、現在では、「おおず赤煉瓦館」として、観光インフォメーションセンターなどの施設がある。
 

  ■ 卯之町 2001.9.14

     建物は白壁塗りの木造二階建瓦ぶきで、見様によっては和洋折衷ともいえる。中央に堅牢な瓦ぶきの玄関
          がある。和風の車寄せといっていい。その玄関の屋根に鬼瓦が置かれているのは、日本的ともいえるし、
          りりしくもある。

     なかに入ってみて、驚いた。明治の文明開花期の小学教育の教科書、教材が多種類にわたって保存され、
          陳列されているのである。

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明治15年(1882)建造、国指定重要文化財。アーチ窓から資料館と教会を見る。

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      2階には伊呂波図などの明治期の教材が展示されている。この教材を使って勉強した記憶がある。

     開明学校の台上を降り、左へ折れると、明治・大正にもどったようなふるい町並になる。商家も素封家ふ
          うの家も白壁が塗られ、隣家とのあいだにうだつを上げている家が多い。


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      江戸末期から明治初期の面影を残す中町の町並み。  高野長英の隠れ家。

  ■ 宇和島 2001.9.14

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   城山北登山口に移設された桑折氏武家長屋門。門から続く石段。
宇和島には市街のはしばしに江戸時代の城下町のにおいがのこっているが、奇妙なことに城山のまわりほどちがう。天守閣と城山だけが凝然と青い空をささえていて、その孤独さは悲痛なほどである。

この山は、太古には島であったであろう。

宇和島は司馬さんの好きな町である。地図を片手に、宇和島での司馬さんの足跡を追ったが、うまくたどりつけなかった。いろいろな町をたずねているが、このような経験ははじめてだ。

   松丸 2001.9.13

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川越しに、国指定史跡・河後森城のある山
が見える。
松野町というのは広大な町域を占めているが、
町役場が松丸に置かれているために、この集
落が代表格のようになっているらしい。

戦国期には河淵村とよばれていて、村の背後
の山に城もあった。しかしその城を松丸とい
わず、河後森(こうごもり)城といった。松
丸の地名がさかんにつかわれるようになった
のは、近世かららしい。


松野町をたずねた日、夕方から雨になった。
翌朝、吉野川に行って見ると、水かさが増し
て、水の流れも速かった。河畔には、この町
出身の俳人・芝不器男の句碑が立っていた。

  卒業の兄ときてゐる堤かな  不器男

   目黒山形模型 2001.9.13

    
目黒山形模型は、江戸時代の初め1665年(寛文5年)に製作された木彫りの地形模型です。吉田藩領の
    目黒村と宇和島藩領の次郎丸村が、1658年(明暦4年)以来山の境界争いを続けていましたが、地元で
    は決着がつかず、ついに目黒村が1664年(寛文4年)幕府に提訴しました。この裁判の中で、幕府は山
    形と地図の作成を両村に命じ、その結果製作されたのがこの模型でした。幕府の裁許(判決)は1665年
    10月にだされました。                      
目黒ふるさと館パンフレットより

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  山形模型。畳3枚分の大きさ、材質はイチョウ。
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1664年(寛文4年)幕府への訴訟状。

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この模型が発見されたのは昭和三十九年ごろで、住職さんが、寺にこんなものがあるんだが、といって町役場に報せたのが最初で、町は驚き、とりあえず町指定の文化財にした。これだけのものが、まだ県指定の文化財にもなっていない。

司馬さんは建徳寺でこの模型を見てる。その後、大変立派な山形模型の展示館が建設され、関係資料といっしょに保管展示されている。木型模型は町指定文化財のままで、まだ県指定には至っていない。

目黒ふるさと館は庄屋屋敷をイメージして造られていて、内部の梁などを見ると、江戸時代の建物を移築したのではないかと思えるくらいに本格的な建物である。