司馬遼太郎の風景 葛城みち 笛吹神社・一言主神社・高鴨神社 2003.4.11 CAMEDIA

この葛城山麓で古来栄えた王朝――葛城国家といっていい――が、その後大和盆地で成立する天皇家より当然古いという印象は、あくまでも印象だがどの古代史家も否定はできないであろう。

その葛城古代国家の村々が、葛城山麓に点々として残っている。「国つ神」の村々である。

「記紀」では、天つ神の子孫(神武天皇や崇神天皇)があとから大和盆地にやってきて先住の国神の部族を平定したのだが、その古い集落が、葛城の神々をいまなお祀ってまりの杜を護持しているというのは、当然といえば当然だが、なにやら歴史の可笑しみのようなものを感ずる。

その葛城の神々を訪ねよう思い、まず地図をひろげてみると、葛城山麓をひとすじの古道が走っている。「大和街道」といまの地図には書き込まれているが、新しい名称であろう。ここでは葛城みちと呼ぶ。

 司馬さんは、葛城みちのすぐ北、當麻町竹内で少年期をすごした。
 司馬さんにとって、葛城は慣れ親しんだ場所ではないだろうか。

 司馬さんが、葛城山麓の神々を訪ねるために葛城みちを歩いたのは、
 1970年か1971年の3月ごろではないかと思う。

 
 猿目集落の道の真ん中の大きな石
  に刻まれた六地蔵。室町末期作。

笛吹神社(火雷神社)


葛木坐火雷神社の標石。

司馬さんが物置ほどに小さいと書いているのはこの
建物か?
森のなかはおもったよりも広いが、さらに登ると次第に狭くなり、山肌にぶつかる。そこに古墳があり、横穴を露出させている。

その塚口のそばに社がある。古墳と神社とがこうも直結しているというのはほかに例があるのだろうか。

神社は小さい。物置ほどに小さい。弥生時代の穀倉とそっくりである。
 

司馬さんは古墳と神社とがこうも直結しているというのはほかに例があるのだろうかと書いているが、古墳の前や上に神社が設けられているのは、めずらしいことではないと思う。司馬さんが物置ほどに小さいと表現した建物は確かにその場所にあったが、かなり新しい建物だった。今は、この建物の右手に立派な社殿がある。

一言主神社


一言主神社の杉並木の参道。
やがて、大鳥居がありあり、そこからはるかむこうの山麓まで松並木の参道になっている。古街道の松並木が戦後急速にほろびつつあるが、もしそのほうの全国番付をつくるとすれば、ここなど横綱が張れるのではないか。

車を大鳥居のあたりに置いて徒歩になったが、途中里のひとと一人だけすれちがった。梅の枝を背いっぱいに背負っている老婆で、里では梅の花がしぼんでいるというのに老婆の背の梅の花はしろじろと咲き匂っていた。山のよほど高い場所から伐ってきたのにちがいなかった。


一言主神は、願い事をひとことだけ聞いてくれるという神様。地元の人は、「いちごんさん」と呼ぶらしい。わたしは健康をお願いしたが、司馬さんは、何をお願いしたのだろうか。

 

高鴨神社


高鴨神社の池。後方に葛城の山並み。
ほどなく鴨族がその結合の中心としてきた高鴨神社の森にゆきあたり、森のなかに入った。入るとすぐ古色をおびた池があり、葛城・金剛の山みずをここに溜めるというしくみであったことが、ひと目でわかる。

この森をふくめた段丘の風景ばかりは、おそらく弥生のころから変わっていないようにおもわれた。

おとずれた日は、御所市市議会議員か何かの選挙中で、神社の前にはたくさんの人が集まっていた。候補者の支援者たちであろうが、その中には鴨族の子孫も含まれていたであろう
 
 風の森神社にて。