根来寺は、風吹峠の紀州川のふもとにある。
峠(いまは風吹トンネル)の頂上が216メートルという低い丘陵で、古来、ここを根来街道が通っている。
北へゆけば泉州(現・大阪市泉南市)になり、南に降りれば根来寺の門前になる。さらに降りれば、紀ノ川が光るのを見る。
紀ノ川流域では、せまい平野が、寸土をむだにせずに耕されている。
司馬さんが須田画伯といっしょに紀ノ川流域を旅したのは、1988年6月1日から4日であった。
訪れたのは、根来寺と和歌山上だった。 |
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●根来寺
根来寺は、もはや往時のようではない。
その空閑としたところが、この広大な境内の清らかさになっている。わずかに残った大門や堂塔、塔頭(たっちゅう)が、
ひくい丘陵と松柏(しょうはく)にかこまれて、吹く風までが、ただごとではないのである。
根来寺の起源は平安時代末期で、室町時代末期の最盛期には堂塔2700寺領72万石の大寺院だったが、
天正13年(1585)3月、豊臣秀吉によって焼き払らわれた、一部の堂塔のみが残った。

大門の仁王像。 |

大門をぐぐって振り返る。 |

愛染院。 |
根来寺の大門は堂々たる楼門で、天空海闊(かいかつ)ということばがうかぶほど大きな空を背負い、まわりの低い山林を圧している。江戸期の再建で、天保6年(1835)に起工し、12年の歳月がかけられたという。
門を入って右手に、低い丘を背負った武家屋敷ふうの長屋門が残っている。いまは塔頭(たっちゅう)の一つで「愛染院」という名になっているが、ここが「杉之坊」の跡だといわれているのである。もっとも、杉之坊とならぶ愛染坊の跡なのかもしれず、そのあたりがよくわからなかった。
大門をぐぐると根来寺の境内と考えていたが、大門から先は一般道の車道で、この車道を400mほど進んだところに、境内への入口がある。車道の途中に蓮華院や律乗院がある。
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蓮華院。 |
道の左に、当時の塔頭子院(たっちゅうしいん)のおもかげをしのばせる建物がのこっている。
「蓮華院」というのがあった。石垣を組んだ上に白壁の塀がながなとつづいている。石段をあがれば、門があり、門といい、塀といい、武家屋敷をおもわせる。
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大師院。 |
ことに、森を背負っている大師堂は、印象ぶかかった。
大きな建物ではないが、よく使いこまれた密教の護摩壇のように歳月と風雨と人の手で黒ずんでいた。
私どもは、大師堂の濡れ縁にのぼった。
縁を一巡すると、堂まわりのあちこちに、弾痕が残っていた。どれも親指が入りそうなほどの穴で、包囲した秀吉方が発射した銃弾の跡である。そのえぐれようのはげしさに、当時の鉄砲のおそろしさが思われた。
創建当時の建物で残っているのは、大師堂と大塔のみである。 |
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重要文化財の大師堂と国宝の大塔。 |
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●和歌山城

野面積みの石垣。 |
和歌山城は石垣がおもしろい。
とくに城内の「鶴の渓(たに)」というあたりの石垣が、青さびていて、いい。
それに、石垣が野面積みであることも結構といわねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく。”渓”とよばれる道を歩いていると、古人に逢う思いがする。
私どもは天守閣への長い坂を登った。
一歩ずつ石垣を楽しめるのがいい。この城は、石垣だけが古いのである。 |

天守閣への坂道。 |

和歌山城天守閣。 |
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