司馬遼太郎の風景 |
湖西のみち |
北小松、白鬚神社、安曇川、朽木村市場、興聖寺 02.5.22-23 CAMEDIA |
「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きで
ある。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、
雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをこのしている。
「湖西のみち」は、『街道をゆく』の記念すべき第1作である。大津あたりから琵琶湖の西岸を北へ、堅
田、真野、北小松などを経て、安曇川から西へ内陸へ入り、興聖寺で旅を終えている。
■ 北小松
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北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古
び、厠のとびらまで紅殻が塗られて、そ
の赤は須田国太郎の色調のようであった。
それが粉雪によく映えて、こういう漁村
が故郷であったならばどんなに懐かしい
だろうと思った。
司馬さんが北小松をたずねてから30数
年、司馬さんが見たであろう民家は、今
も健在だった。 |
■ 白鬚(しらひげ)神社
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山がいよいよ湖がせまり、その山肌を石垣でやっと食いと
めているといったふうの近江最古の神社がある。白鬚神社
という。
「正体は猿田彦也」といわれるが、最近、白鬚は新羅のこ
とだという説もあって、それがたとえ奇説であるにせよ、
近江という上代民族の一大文明世界の風景が、虹のような
きらびやかさをもって幻想されるのである。
国道161号線をはさんで、湖岸から45m沖合いに朱塗
りの大鳥居が立ち、山側には桃山様式の本殿がある。
観光バスもやって来ていたので、このあたりではかなり有
名な神社なのだろう。交通量の多い国道161号線を渡っ
て、湖岸から大鳥居を見ると、気分がスカッとした。 |
■ 安曇(あど)川
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われわれは西へ折れ、安曇川ぞいの道を川上にむかってさかのぼりはじめた。この道の奥に、南北二十キロという長大な谷間があり、朽木谷といわれる。その谷に着くころにはおそらく夜になっているだろう。
安曇川も、朽木村にダムが出来ているため水量が少ない。司馬さんがおとずれたころは、水量が豊かだったのではないだろうか。
司馬さんは安曇川沿いに朽木村へ入ったが、わたしは、高島町畑の棚田から朽木林道を経由して朽木村に入った。林道とは思えないほど、よく整備されていた。 |
■ 朽木(くつき)村市場
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つぎの字は、古い街道町の姿をとどめている。地名は市場と言い、地名のとおりよろず屋があかあかと灯をつけている。
その道路わきを、堅固に石がこいされた溝川が流れており、家並みのつづくかぎり軒が低く、その軒下の闇に古色がこもっていた。
司馬さんは、朝、大津を出発して朽木村に夕方入ったようだ。わたしも夕方、朽木村に入ったが、市場の町並みを歩いたのは翌朝だった。「鯖街道ロマン朽木宿へようこそ」と書かれた看板が立っていた。
着いた日の夜は、「朽木温泉てんくう」で汗を流し、道の駅「くつき新本陣」に泊まった。 |
■ 興聖(こうしょう)寺・旧秀隣寺庭園
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荒れて子供の遊び場になっているのがなんともうれしく、室町末期の将軍の荒涼たる生涯をしのぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうとおもった。
むろん、観光という自然破壊のエネルギーはこの朽木谷までおよんでおらず、やってくる観光客もいない。
興聖寺は、室町12代将軍・足利義晴が京を逃げ出して潜居した所である。朽木一族と近江の大名が、1530年頃に、義晴のために、この庭園を造ったと伝えられている。
今はよく整備され、観光ガイドにも載っている。司馬さんは、観光を自然破壊エネルギーと言っているが、ここの庭園はおとずれる人は少ないようで、静かなたたずまいを見せていた。
司馬さんが今ここをたずねたとしても、そのたたずまいに、きっと満足されるのではないかと思う。 |
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