司馬遼太郎の風景
2003

高野山みち

九度山橋、真田庵、慈尊院、町石道、丹生官省符神社、苅萱堂、真別処(円通律寺)
03.9.16 CAMEDIA E-100RS
 高野山を権威と信仰のよりどころとした聖が、高野聖である。かれらは時代の流行の念仏を加持するとともに、弘法大師の御利益をかついだ。空海には、阿弥陀如来に頼みまいらせて南無阿弥陀仏をとなえるという思想はまったくない。高野聖が、勝手に念仏と空海をくっつけ、念仏の他力本願と空海の即身成仏という理論的には矛盾したものを堂々と信仰化してしまって、諸国を歩いたのである。

 「病気なおしにはお大師さんの加持祈祷を。死者に対しては阿弥陀如来の本願を慕う念仏」というのが、室町期には夜道怪などとさげすまれるほどにしたたかだった高野聖の両刀使いであった。


司馬さんは高野山を何度もたずねているようであるが、このときの旅は、1976年6月5日、6日の2日間だった。大阪から国道371号線の紀見峠を越えて橋本に入った。筆者も同じルートをたどった。

司馬さんは、大門近くの西南院で宿泊し、翌日、西南院の住職の案内で待望の真別処をおとずれた。
  
  高野山大門
九度山橋
 九度山橋という長い橋が、紀ノ川に渡されている。

 北から南へこの橋をわたるべくさしかかった前面の風景いうのは、右が、はるか奥の高野山につながる尾根が、尾根のまま降下してきて麓で慈尊院の森をなし、左が、ひくい丘陵上に九度山集落のいらかの群れをあかるく盛りあげていて、丘と川を好む中世ヨーロッパの小さな都市国家を思わせる。紀ノ川十景というものがあるとすれば当然入っていい景観であろう。

九度山橋は高野山への入口である。司馬さんは橋のたもとにたたずんで感慨深げに対岸を眺めている。左手に見える九度山集落を、中世ヨーロッパの都市国家、と表現したのはいかにも司馬さんらしい言い方である。
 

真田庵

門扉の六文銭
 長い土塀は、真田庵の塀である。

 正しくは善名称院と言い、高野山の末寺で、尼寺になっている。寺は江戸初期にできたらしいが、敷地がかつての真田屋敷の跡ということで土地では真田庵とよばれて親しまれている。

 門を入ると、よく手入れされた境内に草木がみずみずしく栄えている。全体の構えも建物も、寺というよりは戦国の地侍屋敷といった感じで、まことに蒙毅質朴な感じがする。

真田氏といえば信州であるが、関ヶ原の合戦に敗れた昌幸・幸村父子は、処罰されてこの地に配流された。

慈尊院
 慈尊院の石垣は、路上から吃立している。石垣は全体に苔やしだ類があおあおと覆い、人工でありながら、そのものが偉容ある自然物のような観を呈している。

 石段をのぼって山門の梁の下に至り、ふりかえって紀ノ川の水明かりがする川湊の方角をみると、川湊から石段まで届いているまっすぐな道路わきには古風な民家の屋根がならび、目の前に老松の幹がおろちのように斜めに視野を横切って、江戸期の風景画を見るような感じがする。

筆者も慈尊院の山門から紀ノ川の方向を見てみたが、司馬さんが表現されたような感じには受け取れなかった。町並みが変わったのか司馬さんとの感性の違いか。
 
 慈尊院横の道で見かけた九度山町の
 マンホールの蓋。
 柿がデザインされていた

町石道(ちょういしみち) 関連サイト 旧街道を歩く/高野山町石道

 高野山へ登るのはいまはケーブル・カーか自動車道路によるが、かつては七つの登山口があった。
 高野街道西口、京街道不動坂口、竜神街道湯川口、熊野街道相浦口、同大滝口、大峰街道東口、大和街道粉撞口である。

 このうち、平安朝いらいもっとも繁く人々が踏みならした道は、慈尊院から登っていく高野街道西口で、町石道とよばれ
 たりした。いまはほとんど廃道になっているらしい。

  町石道は司馬さんがたずねた30年位前は廃道同然だったかもしれないが、今は整備されて歩きやすくなっている
  そうだ。1町は約100m、180町は約18キロであるが、実際に歩いた人の話では6時間かかるとのこと。
   

(左)慈尊院から丹生官省符神社の石段をのぼった鳥居の横が町石道の入口。
  説明版と180町石がたっている。
(右)さらに坂道を少しのぼった丹生官省符神社の裏参道入口にある179町石。

   
 ともかくもこんにち高野山に登っても、行人や聖を見ることはできない。

 遺跡は、あるかもしれない。

 しいてそれが遺跡であるといえば、路傍に点在する町石などもそうであるともいえる。登り口の慈尊院から山上の大門ま百八十基、大門から奥ノ院まで三十七基といわれる町石は、聖のなかでも大物級の者が、中央、地方の権門勢家に説いて寄進させたものにちがいなく、学侶は職分としてそのような放れわぎができるはずのないものである。聖たちは、信心ぶかい長者から建立費をもらい、石工や人夫をやとって町石を建てたであろうが、その金の一部は当然の取り分として懐ろに入れたにちがいない。

町石の建立にも欲が絡んでいたという司馬さんの見解はおもしろい。

   

39・38・37町石は
高野山道路沿いにある。

大門越しに小さく見えるのが6町石。
 

奥の院への1町石。根本大
塔から奥の院までは37町。

丹生官省符神社
 石段を登りつめると、思ったより大きな平坦の地面がひろがっている。左右が谷で、左側の谷が暗く深い。正面の奥が、神社になっていた。明治の神仏分離以前は、慈尊院の守り神として寺域の一つになっており、憎がお守りをし、憎がお経をあげていたらしい。

 「生官省符神社」という名前がついている。うっかり平安朝の世にまぎれこんでしまったかと思えるほどに、神社としてはめずらしい名前である。

 高野町石道登山口の表札が出ていた。
 その横には、小さな字で、町石道クロスカントリー大会一時間三十三分五十秒
 と書かれていた。約18キロの山道を1時間半で走った記録である。

苅萱堂
 この苅萱堂は、もともとそういう名前ではなく、萱堂とよばれていた。

 萱でふいた粗末なお堂という意味に相違なく、このお堂を中心に、鎌倉のころ別所聖が群れて草庵を結んでいたために、この一画に住む聖のことを、高野山では、「萱堂聖」とよんでいた。あるいは萱堂聖のなかにもとは筑前の武士苅萱道心のような身上話を持っていた者がいてやがて説話として流布され、謡曲にも組み入れられるほか、後世有名になってから萱堂の名称までが苅萱堂になったのであろうか。

  この苅萱堂の並びの恵光院と熊谷寺の間の道が、「高野山みち」の
 ハイライト・真別処への入口である。
 

真別処(しんべっしょ)円通律寺

 小さな山門が印象的だった。

 門の基部は土をかためて造られ、中央がくりぬかれ、ぜんたいに白亜が塗られている。
 その上に、小さな楼閣が載り、さらにまるい屋根をかぶっている。
 一見、竜宮城の門のようでもあり、簡素さからいえば、なんとなく宋代の中国の田舎の道教寺院にありそうな感じでもある。


 山門の柱に、「高野山事相講傳所」という看板がかかっている。密教のいう事相と一般仏教でいう律とは語義としては違っているが、しかしいずれも行儀や作法を専修するということで、同義語としてふつう使われる。だからここも真言密教の律院といっていい。律とは仏教における戒律の体系である。よく知られているように、盲目の唐僧鑑真が天平のころに日本にもたらした。奈良の唐招掟寺をはじめ律院の建物の多くに中国のなまなにおいがあるというのは当然といっていいが、私の記憶にあるいくつかの律院には、こういう山門がなかったように思える。

 

木の看板には
右に別格本山園通律寺
左に高野山事相講傳所
と書かれている。

司馬さんによれば、恵光院と熊谷寺の間の道を車で進み、小さな谷を見おろす場所で車を降り、谷への小道をたどって、細い谷川の丸木橋を渡り林の中へ入って行った、とのことである。案内人の西南院の住職のおぼろげな記憶をたよりに、やっとのことでたどり着いたようだ。

実際に行ってみると、恵光院と熊谷寺の間の道は、車が通れるような道ではなかった。30年の間に建物が出来たりして様子が変わったのかもしれない。

熊谷寺のお坊さんに、円通律寺の場所をたずねると、「あそこは一般の人が行くようなところではありません。われわれも一度か二度しか行ったことがありません」と怪訝そうな顔をしながらも、寺への道順を教えてくれた。
 
熊谷寺の右手の道を登るとすぐに細い山道になる。10分くらいで小さな峠にさしかかり、さらに10分くらい下ると未舗装の広い道に出た。ここを右に行くと、小さな川に社寺の門前にあるような意匠の橋が架かっていて、その先にまっすぐな道がのび、遠くに山門が見えた。

この道は寺の南から通じていて、車が通行できるだけの十分な幅がある。境内には数台の車が止まっていたし、途中軽トラックと行き違ったので、高野山道路のどこかから通じているのであろうが、その場所は分からなかった。

司馬さんはこの旅以前にも真別処をおとずれたことがあり、そのときは、しゅろ縄が張られ、板に立ち入り禁止の旨の文字が書かれていたというが、今回そのようなものはなかった。「真別処へ行かないと高野の浄かさは分からない」という言葉に誘われて円通律寺をたずねたが、清浄な空間に身を置けてしあわせだった。