私は、まほろばとはまろやかな盆地で、まわりが山波にかこまれ、物成りがよく身持ちのいい野、として理解したい。むろん、そこに沢山さわに人が住み、穀物がゆたかに稔っていなければならない。
青森県(津軽と南部、下北)を歩きながら、今を去る一万年前から二千年前、こんにち縄文の世といわれている先史時代、このあたりはあるいは、"北のまほろば"というべき地くにだったのではないかという思いが深くなっていた。
この紀行の題名については、「けかち(飢饉の方言)の国がまほろばか」と、地元でさえ、異論があるに相違ない。
司馬さんが「北のまほろば」の旅をしたのは、1994年の冬と夏の2回で、夏の旅では発見された三内丸山遺跡をたずねるのが主目的だった。「北のまほろば」は「街道をゆく」の中でもかなりの力作である。 |
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●石場家
雪の正月の期間中、弘前城のそばの石場家をうかがった。石場家は、城の北郭の堀端にある。旧藩時代、藩の御用をつとめた富商で、いまは屋敷そのものが国の重要文化財に指定されている。
弘前は物の保存のいいまちである。城も、ほぼ旧観のままのこされている。五つの城門も、そのまま遺っていて、堀には美しい水がたたえられている。しかも、北の門である亀甲門のそばには、石場家という御用商人の屋敷までが、旧観そのままに保存されているのである。
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石場家。 |

弘前城亀甲門。 |
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●木造
JRの木造駅に出た。木造駅は町域の北東のはしにあって、まわりには人家が密集している。役場や商工会もある。駅舎をみて、仰天する思いがした。遮光器土偶が、映画の怪獣のように駅舎正面いっぱいに立ちはだかっている。
巨大土偶のふとい片足が、駅舎正面の軒を貫いて地面を踏みしだいているのである。近づいてさわってみると、プラスチックらしかった。
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「木造町縄文住居展示資料館」という正称の小さな博物館をもっている。博物館には、「カルコ」というニックネームが、つけられている。”Kamegaoka
archaeology-collections ”という英訳を略したものだそうで、アーケオロジー(考古学)ということばが、効果的につかれている。

現在、木造町は合併してつがる市となっている。
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●十三湖
鯵ヶ沢から北は、砂である。海岸線に沿って、ピアノ線を撓たわませたような汀線をみせつつ、七里長浜の砂地がつづいている。
その汀線がゆきつくところが、十三湊とさみなと(十三湖じゅうさんことも)である。だから、この砂の長汀のことを、「十三とさの砂山」とよんだ時代もあった。歌謡の好きな津軽びとは、江戸時代の早い時期に、「十三の砂山」という唄をうたった。どんな曲か→こちら
十三の砂山 ナーヤーエ
米ならよかろ ナー
西の弁財衆にゃ エー
ただ積ましょ ただ積ましょ
この砂地の下に、数世紀のあいだに何万の人々がそこで生死した都市が存在していたのである。中世という時期には、(それ以前もそうだったろうが)十三湊とその周辺こそ"北のまほろば”だったのかもしれない。 |

鯵ヶ沢港付近の七里長浜。七里長浜は十三湖まで7里、つまり約28km。 |
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十三湖の南にある十三の砂山公園。左に記念碑、右に十三湖大橋。 |

十三湖。中島にかかる橋。 |
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●金木
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見あげると、かねて写真で見たとおり、まことに宏壮な建物である。ただ、雅趣はない。たとえば、近江商人の故郷の一つである五個荘町には大屋敷がならんでいるが、「斜陽館」はそういう数奇屋ふうの瀟洒な建物ではない。
大正時代の温泉場の大きな宿屋のように、ただ大きい。大きな棟一つで二階建ての巨大な箱をまとめている。
箱であらざるをえなかったのは、おそらく内部に鹿鳴館ふうの様式構造をとり入れていることや、また十九室を内蔵せざるをえないためのものだったろう。当時(明治三十九年)の苦心の設計だったにちがいない。
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