司馬遼太郎の風景
2005

北のまほろば・夏の旅

三内丸山遺跡、棟方志功記念館、蟹田、三厩、竜飛崎、五所川原
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大坂の自宅で朝日新聞の夕刊をひろげたとき(一九九四・七・十八)一面トップに大変な記事が出ていることに驚かされた。「四五〇〇年前の巨大木柱出土」という。青森県にである。縄文中期という大むかしに、塔までそびえさせているような大集落遺跡がみつかったのである。場所は青森市郊外の三内丸山である。

縄文時代、世界でいちばん食べものが多くて住みやすかったのが青森県だったろうということを、私も考古学者たちの驥尾きびに付してそう思い、いわば"北のまほろば"だったと考えてきた。それが、土中から現われようとは思わなかった。
   
三内丸山遺跡
ともあれ、青森へ行ってみた。青森空港についたのは七月二十二日(一九九四)の夕方で、このところの猛暑つづきで、空港ですでに三〇度ちかかった。

発掘の現場の一角に立ってみた。想像したよりもずっとひろく、発掘作業の人達が遠目はるかに動いていて、最も遠い林のそばの人達の姿などはヒマワリの種子のように小さくみえた。


翡翠も出てきた。手にのせると、ばかに重かった。

人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が――この翡翠をくびからぶらさげて――待っていたであろうことを想像した。
 


復元された高楼と大型竪穴住居。


復元住居群。

糸魚川から運ばれてきたであろう翡翠。

様々な形状の石造品。
   
棟方志功記念館
青森市に松原という住宅地があって、堤川が流れている。広やかな道路をもつ一角に、二階だての「棟方志功記念館」がある。昭和四十五年、志功の文化勲章受章を記念して発起され、昭和五十年に落成した。夏の青森ゆきの目的の一つは、ここを訪ねることだった。

棟方志功の自己は、まことに大きい。いつも朝の野のように初々しく露で濡れていて、その初々しさは縄文時代から迷わずにこの世にきた人ではないかと思えるほどである。
   

棟方志功記念館入口。

2005年は記念館ができて30年になる。
   
蟹田
蟹田は町である。本州最北端の町といってよく、ここから北は山が海になだれこむ。津軽半島の陸奥湾側で、大集落ができあがる北限なのである。港もある。むかいの下北半島脇野沢村とは海上十五・六キロで、渡しフェリーで結ばれている。江戸時代にはここで五百石、千石の大船も建造されたという。

蟹田の丘にのぼると、太宰の碑がある。どういうわけか、太宰とつながりがかならずしも濃くなかった佐藤春夫(一八九二〜一九六四)の太宰への寸評が刻まれている。 かれは人を喜ばせるのが何よりも好きだった!

碑に刻まれた文章は、太宰の『正義と微笑』の一節から引用されたもので、佐藤春夫の寸評ではない。文字は佐藤春夫のものである。また文章そのものも「好きだった!」となっているが、「好きであった!」が正しい。太宰は同書の中で、「誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。」と書いていて、この文章の内容は太宰の願望であった。
   

北緯41°の文字が見える「かにた」の駅名標。

瀾山の太宰治の碑。
   
三厩
国道周辺が公園ふうに整えられて、すぐそばの山ぎわに「厩石公園 三厩村」と掲示板があげられている。かつては海中にあって侵蝕を受けた大きな岩礁が、公園の主役である。岩礁のかたちは奇怪で、三つの洞がうちぬかれていて、柱もある。遠くから見ると、恐竜が歩いているようにみえる。それが"厩石"である。
   

義経寺本堂の笹竜胆の家紋がついた扉。

義経伝説の厩石。
   
竜飛崎
竜飛崎は山でもある。三方が海中に突き出たその崖に登る自動車道路があり、登りつめると、灯台がある。

別の丘に展望台もある。
なかに入ってガラス越しに足元をみると、はるか下に波が白くなって岩を咬み、沖に北海道の山々が霞んでいる。
   

竜飛埼灯台は1932年建造。

司馬さんが書いている展望台のある丘を西から見たところ。
丘のむこうに北海道の島影が見える。
   
五所川原
司馬さんはこのたびの最後にりんごの古木を見るために、五所川原市から柏村のりんご農家へ向かう。そして、『りんごの涙』という小学生たちの文集に触れ、「でかせぎ」という題名の詩を紹介して『北のまほろば』の稿を終えている。

  きのうね
  おとうさん
  いっちゃった
  ひとりででかせぎに
  いっちゃった
  ほんとに
  いっちゃった

  おうまさんに
  なるって
  いったのに


以下の写真は柏村のものではなく、柏村のすぐ南の鶴田町で撮影したものである。イメージ写真として掲載する。

茅葺き民家と真っ赤なりんご。

りんご畑のむこうに岩木山。