司馬遼太郎の風景 中津・宇佐のみち 薦(こも)神社、宇佐神宮、合元寺、福沢諭吉旧居、山国川 |
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「中津・宇佐のみち」は、
八幡といい、やはたという。いずれも八幡神(やはたのかみ)のことである。この神は、もっとも早い時
代に仏教に習合したから「八幡大菩薩」などともよぶ。
日本の津々浦々に多い神々といえば天神(天満てんま)さんに八坂神社、それにお稲荷さんだが、わが
八幡宮は、それらを超えて、全国四万余社といわれる。
という書き出しではじまる。この旅の興味のひとつが、八幡信仰であったことがうかがえる。大分空港に降り立っ
た司馬さんは、最初に、薦神社へ向った。
全国四万余社といわれる八幡社のもとのもとはいうまでもなく中津のとなりまちにある宇佐神宮である。
その宇佐神宮にも”先祖”があって、それが中津郊外の台上にある薦神社だといわれている。
宇佐神宮(宇佐八幡宮)の最大の宗教行事は、神職たちが薦神社の池にやってきて真薦(まこも)を刈るこ
とである。刈られた薦は宗教上の手順をへて、これで枕がつくられた。その枕が宇佐神宮のご神体(御
験みしるしとも神座かみくらともいう)とされ、八つの神社を巡幸するのである。行事は、六年に一度
だという。
「中津・宇佐のみち」を読んで、はじめて薦神社の存在を知った。実際にたずねてみると、中津に、こんなに古代
を感じさせる神社があったのか、と驚かされた。
楼門がある。
逆三角形をおもわせるような、ふしぎなかたちをした楼門で、色彩は丹色(にいろ)である。
ところどころ黄が点在し、豪壮ななかに優美でもあり、緋縅(ひおどし)を鎧(よろ)った鎌倉の若武者が腰をおろし、天をあこ
がれているようでもある。
薦神社は森の中にあり、参道からは木立の向こうに楼門が見える。
残念ながら、楼門は閉鎖されていて、楼門をくぐって社殿に入ることはできない。
薦神社楼門(国指定)
99/7/31 PentaxMZ3/28-70mm

夏空を映して静かにたたずむ三角池 99/7/31 PentaxMZ3/28-70mm
目の前に大きく池がひろがっている。神格のようにも、人格のようにもうけとれる。もしこの池のような人格の人にめぐりあえば、生涯の幸いにちがいない。
池の対岸もいくつかの岬も、湧きあがる雲のような大杜(おおもり)や小杜につつまれ、それらの樹林が水面に影をおとし、さらにはところどころに水草などが面をなして、水の色をみているだけでも倦きない。
この池は、三角(みすみ)池、三角ケ池、御澄(みすみ)池などと表記されるが、さほどいい漢字ではなく、どうして漢字以前の古代人のように、「みすみが池」と、表音式に書かないのだろう。
「こも神社」と、表音文字で書けば、古代以来のにおいがいっそうするとおもうのだが。
図版の古地図でみる三角池は、親指と小指を折って、中指、くすり指、人さし指をツノのように出したかっこうをしている。むろん、手のひらの部分がもっとも広い。私どもは、その広い部分の池面をながめている。
薦神社のパンフレットより
大分県(豊前・豊後)が、ふるくは豊(とよ)の国とよばれたことは、すでにふれた。
「とよ(豊)」とくちずさむだけでも、野山が華やぎそうである。
野は、周防灘に面し、帯状に東西にのびている。
背後(南)は深い山なみで、樹林が保水し、水を流し、野をうるおし、しかも天変地異がすきない。まことに豊の国というほかない。
私どもは、宇佐神宮の森にいたった。
まことに雄大な神聖森林で、まわりは堀にかこまれている。表参道をとおり、堀を見、かつ朱塗りの橋をわたると、大いなる朱塗りの鳥居の前に出た。
1615年建造の宇佐神宮呉橋。92/12/5
NikonF4s/24-50mm
合元寺(ごうがんじ)がある。
建物の塗も、練塀も赤い。
「赤壁」というのは一般的に印象的なもので、中国の宋・元のころのお寺に多く、江戸期の長崎でたてられた中
国ふうの寺も、赤壁である。日本人の好みでいうと、赤壁はかならずしもあわない。
土塀の美しさは、奈良の東大寺界隈や法隆寺などが私どもの基準になっているようで、仮りに法隆寺の土塀を赤
壁にするとなると、日本じゅうで反対がおこるにちがいない。

1588年、中津城主となった黒田如水は、 前領主・宇都宮鎮房を城中で暗殺した。城から 逃げ、この寺で奮戦した家臣たちも、ここで最 期をとげた。そのときの血痕が白壁にしみ出るため、赤壁に塗り替えられたという。
赤壁の合元寺。01/10/20 CAMEDIA E-100RS

福沢諭吉旧居。01/10/20 CAMEDIA E-100RS 道路標識。99/7/31
PentaxMZ3
私は最初に福沢旧居をたずねたとき、小さな公園になっているその場所のむかいに浄土真宗の寺があることを知ってうれしかった。
当然、毎日、その寺の門前で子供の諭吉があそんでいる。ときに説教の日があり、巡回説教師がやってきて、当日は祭のように門信徒がおおぜい出入りしたにちがいなく、さらにいえば、かれがのちに演説という新習慣を興そうとした とき、この寺の門前を目にうかべたかと思える。
中津といえば福沢諭吉、この小さな地方都市・中津を有名にした歴史上の人物である。
中津へ入る路傍には、福沢諭吉の似顔絵入りの標識が立っている。司馬さんが中津をおとずれたのは
1989年と思われるが、司馬さんはこの標識を目にしただろうか。

下唐原・大井手の堰付近の景観、後方が八面山。
99/7/31 PentaxMZ3/28-70mm
中津は、潅漑、飲み水ともに、水にめぐまれている。この点、山国川の存在は大きい。
南西の山塊に山国という地があり、水はそこから流れ出ている。途中、奇勝の耶馬溪などをうる
おし、二十余の支流をあつめつつ、中津平野に出、河口の中津市をへて周防灘にそそぐ。
下唐原(しもとうばる)という小集落まできて、堤から山国川をながめると、足もとからゆるやか
に河原がひろがって、ゆく水が白雲を映してきらめいている。
対岸の空を、八面山が大きくきりとっている。この航空母艦ののような形の山は、ここからみて
も、周防灘からみてもおなじような形にみえるためにその名がついたという。
下唐原の上流・耶馬溪には素晴らしい石橋があり、わたしは何度か撮影にでかけたこと
がある。司馬さんは、ここ下唐原の堤で中津・宇佐の旅を終えているが、もし、山国川に
かかる石橋を見ていたら、何を感じ何と表現しただろうか。
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