司馬遼太郎の風景
濃尾参州記
十六世紀の織田信長が、いまでいう名古屋人であったことはいうまでもない。 那古屋(名古屋)の地名は、荘園の名としてすでに鎌倉時代にあらわれる。小さいながらも城もあった。信長の父の信秀が奪取して、織田氏の持ち城の一つになった。 十七世紀の初頭、徳川氏の世になって那古屋に近世城郭が築かれ、表記が名古屋に統一された。私はその名古屋城の堀端にあるホテルにとまっている。部屋の窓いっぱいに天守閣もみえる。
名古屋については、信長から書きはじめたい。
その信長の一代のなかでも、若いころの桶狭間への急襲についてである。かれは尾張州をひきい、いまの名古屋市域を走った。勝ちがたい敵とされた今川義元(1519〜60)の軍に挑み、ひたすら主将義元の首一つをとる目的をしぼり、みごとに達した。
三十年近く前、愛知県の地図をながめていた。県の東方の三河の部を虫めがねでながめながら、山中に、「松平」という、極小の活字を見つけて、うれしかった。考古学者が思わぬ土器の破片でもみつけたような気持ちだった。 さらに地図をこまかくみると、そのあたりに水流がないことを知った。すこしくだれば、細流がある。ほそぼそと山田を耕す農民が、わずかにいたであろう。水田の豊かな地から戦国の豪族が興るという常識からいえば、徳川氏の遠祖は、ずいぶん暮らしにくげな辺地から出たことになる。 高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。 高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。 高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。 この変貌は、おそらく寺の責任ではなく、ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている”町おこし”という自治体の仕業に相違なかった。 山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからながく住んでゆかねばならない若い人達に同情した。 筆者がたずねたときは小雨模様で、松平郷はとても静かだった。司馬さんが映画のセットのようだと書いている練り塀も、10年の歳月がそうさせたのか、それほど気にはならなかった。旗などもなかった。司馬さんにこっぴどく書かれてたため、豊田市が改めたのかもしれない。
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