司馬遼太郎の風景

濃尾参州記

熱田神宮、宮の渡し、桶狭間、松平郷
07/3/27 *istD/K10D


十六世紀の織田信長が、いまでいう名古屋人であったことはいうまでもない。

那古屋(名古屋)の地名は、荘園の名としてすでに鎌倉時代にあらわれる。小さいながらも城もあった。信長の父の信秀が奪取して、織田氏の持ち城の一つになった。

十七世紀の初頭、徳川氏の世になって那古屋に近世城郭が築かれ、表記が名古屋に統一された。私はその名古屋城の堀端にあるホテルにとまっている。部屋の窓いっぱいに天守閣もみえる。

名古屋については、信長から書きはじめたい。

その信長の一代のなかでも、若いころの桶狭間への急襲についてである。かれは尾張州をひきい、いまの名古屋市域を走った。勝ちがたい敵とされた今川義元(151960)の軍に挑み、ひたすら主将義元の首一つをとる目的をしぼり、みごとに達した。


 
 名古屋城天守閣

「濃尾参州記」は未完である。司馬さんは、1995年10月と1996年1月に取材をしているが、1996年2月に他界してしまった。

熱田神宮 関連サイト 平家物語への旅/熱田神宮
信長が駆けて熱田神宮に至ったのは、午前八時ごろだったらしい。ここでかれは戦勝を祈願する一方、後続する者を待った、ほどなく二百騎が追いつき、祈願がおわるころみは、千騎に達した。

熱田から東南直線にして十キロに、桶狭間がある。


安野光雅氏が社殿の前で写生をしていると、警備のの人に制止されたことに対して、司馬さんは、なぜ写生がいけないこか、私にはよくわからない、と書いている。

日本の寺社では、写生に限らず、写真撮影を禁止しているところが多い。教会でも、大浦や浦上でも写真撮影禁止になっている。ヨーロッパの教会では撮影が自由だったし、オルセー美術館では、床に座ってミレーの絵を模写している人たちがいた。
 
 桶狭間で大勝したお礼として奉納した築地塀。
 信長塀と呼ばれている。

宮の渡し
熱田神宮から南へ1kmほどの堀川に宮の渡しがある。「濃尾参州記」の中に宮の渡しの記述はないが、司馬さんが立ち寄っているので、筆者も立ち寄ってみた。

宮の宿から桑名の宿へは東海道唯一の海上路で、その距離にちなんで七里の渡しといわれた。今は、船着場址を整備した歴史公園となっていて、常夜灯、時の鐘などがある。



 
 

●桶狭間
 関連サイト 旧東海道有松宿
義元が酒ほがいしている頭上の空が、にわかに冥くらくなった。大粒の雨が落ちてきたのは、正午すぎだったろう。

おなじ時刻、信長はこの大雷雨に太子ヶ根という崖の上で打たれた。いまの緑区太子の町域である。眼下に、桶狭間の森林が、雨のために白んでみえる。

織田勢が、いっせいに田楽ヶ窪の今川の陣に突っ込んだのは、午後二時ごろだったかと思われる。雨は、小やみになっていた。

今川勢にとって雨さえ不意だったのに、敵襲とは思いもよらなかった。

やがて松の根方にただ一人すわっている美々しい軍装の人物を、織田方の服部小平太が見つけ、「駿府の御屋形おやかた」と、鄭重に声をかけ、まっすぐに槍をつき出した。

義元は、「松倉郷の太刀」とよばれる今川家重代の太刀を抜き、槍の柄を戛かつと切り落とした。槍の柄を両断するなど、よほどの太刀わざだった。

義元はさらに小平太の膝を切りはらった。小平太は倒れたが、そのすきに小平太の朋輩の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、さらに太刀をすて、義元に組みついた。

雨中で両人はころげまわって戦ったが、やがて毛利新助は義元を刺し、首を掻きとった。このとき、義元は新助の人差指を骨まで噛みくだいていた。よほど無念だったにちがいない。

新栄町の桶狭間は名鉄「中京競馬場前駅」のすぐ南で、今川義元の墓、七石表とよばれる七つの石碑、そして近くの高台には義元が陣を張ったと伝えられる高徳院がある。観光スポットとしてはこちらが一般的なようだ。
狭間の古戦場跡は、名古屋市緑区有松町と豊明市新栄町の2か所にあって、どちらも桶狭間古戦場公園となっている。両者の距離は1km弱である。

有松町の桶狭間は田楽坪という所にあり、名鉄「有松駅」から1kmほど南にある。今川義元戦死の地の標石と義元の墓標、今川義元水汲みの泉などがあるが、まわりは住宅地で、説明板がなければ普通の公園と変わらない。

有松は旧東海道の宿場町で、司馬さんは有松の町並みを散策しているようだが、「濃尾参州記」にはその記述はない。





高徳院境内に建つ今川義元公本陣跡の碑。

 

●松平郷

三十年近く前、愛知県の地図をながめていた。県の東方の三河の部を虫めがねでながめながら、山中に、「松平」という、極小の活字を見つけて、うれしかった。考古学者が思わぬ土器の破片でもみつけたような気持ちだった

らに地図をこまかくみると、そのあたりに水流がないことを知った。すこしくだれば、細流がある。ほそぼそと山田を耕す農民が、わずかにいたであろう。水田の豊かな地から戦国の豪族が興るという常識からいえば、徳川氏の遠祖は、ずいぶん暮らしにくげな辺地から出たことになる。


高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。

高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。

高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。

この変貌は、おそらく寺の責任ではなく、ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている”町おこし”という自治体の仕業に相違なかった。

山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからながく住んでゆかねばならない若い人達に同情した。

筆者がたずねたときは小雨模様で、松平郷はとても静かだった。司馬さんが映画のセットのようだと書いている練り塀も、10年の歳月がそうさせたのか、それほど気にはならなかった。旗などもなかった。司馬さんにこっぴどく書かれてたため、豊田市が改めたのかもしれない。

 
 松平氏の菩提寺・高月院への坂道。
 
 高月院の門前。