司馬遼太郎の風景
2003

大和丹生川(西吉野)街道

栃原、唐戸・光台寺、十日市・鎌田家、鹿場・ 西田家、黒淵
03.9.17 CAMEDIA E-100RS

 奈良県の吉野の奥は、もう紀伊半島の大山魂に連続し、東西に走る果無山脈でもってその南の熊野に接している。むろん、水流の方向はちがう。吉野の山奥の水流は、吉野のひとびとが国中とよぶ大和盆地にむかって流れ、熊野の川は海にむかってそそいでいる。

 この下市から西吉野村という山里へ入る街道には、べつに名称はなさそうである。仮にこの稿だけに用いさせて貰う呼称として「大和丹生川街道」を称してみたが、根拠はあやふやである。


司馬さんが下市から西吉野村へ丹生川沿いの道をたどったのは、1975年9月7日、8日であった。7日の昼ごろに近鉄下市口駅に着いて、駅前のうどん屋で腹ごしらえして、県道を西南へ向かった。


 

 
 丹生川は秋の気配。

栃原
 下市の南のはずれから西南へゆく枝道があり、道は最初から登りで、十五分ばかりゆくと相当な高さになった。

 道路の右側は、大地がえぐれたように大きな谷になっていて、谷のあちこちに人家が点在している。谷が下界へむかって、漏斗をかしげたように傾斜し、その傾斜したはしに空が大きくひろがっていて、はるかに遠山が見える。なんだか意外な感じがしないでもないが、それが金剛・葛城の山だという。


栃原への道はかなり狭かった。栃原のバス停から見ると深い谷から気持ちのよい風が吹き上げてきた。遥かかなたまで山々が連なっている。このあたりも柿木が多い。



 

唐戸・光台寺
 私のほうが気に入ってしまって路傍に降りて仰ぐように眺めると、山が箱庭の蓬莱山といった感じで屏風のように里の背を立てめぐらしている。小高い所には白亜に勾配の深い屋根をかぶせた城郭のような真宗寺院があり、家々の配置に株序があって、それぞれが石垣を組みあげ、小藪などをめぐらし、柿の木を点在させて、日本の村里のなかでも景観の美しい村の仲間に入るだろうと思われた。

 とくに谷川と木の橋が、造形としてよく利いている。谷川は、近景になる。道路わきを深く鋭く地を割って流れ、木の橋が、道路と村とをつないでいる。戦国のころならこの木の橋をおとしさえすれば村という「垣内」が孤立し、谷川は濠になって外敵の侵入をふせげるし、必要とあれば真宗寺院に籠ればそのまま城郭になりうるのである。

十日市・鎌田家
 商家もちらほらあるが、なにぶん乎坦な地面がなく、急峻のすそがいきなり川で、家というのは道路わきの山を噛りとったように削ってわずかに敷地を作っているにすぎない。

 そのなかで、めだつほどの大きな屋敷は、一軒しかない。それが鎌田三郎氏の家だった。

 鎌田家は、あとできいたところによると、いまでこそお医者さんだが、むかしは酒造業であったり、種油をつくる油屋さんであったりした。酒にせよ油にせよ、江戸期から明治期までの商品経済にあっては大きな資本を必要とする代表的な業種である。おそらくその当時、経済力があったために、山を削り、岩を砕いて大きく屋敷地を造成することができたのであろう。

鎌田家は堂々とした屋敷で、一目でそれと分かった。鎌田病院は看板をかかげていたが、営業しているようには見受けられなかった。

●鹿場・西田家
 「この家は、建ってどのくらいになりますか」

 「三百年だといいます」

 よく使いこんだものだが、よほど材や構造がしっかりしているのか、光沢がいよいよ出て、じつに結構なものである。よくいわれることだが、建築材として木材はコンクリートよりずっと耐久力がつよく、もっとも強度がつよくなるのは建てて五百年目だというから、西田家の材は強度においてまだ少年期であるといえるかもしれない。

西田家は17世紀中ごろの建造で、国の重要文化財に指定されている。茅葺きであるが、残念ながらトタン板でおおわれている。
 

黒淵
黒淵は川筋が大きく湾曲してできた地形で、この渓谷にはめずらしく河原があり、地名のとおり黒ずんで深そうな淵もある。柏荘というその宿は道路わきに玄関を出し、入ったところが二階である。裏が崖で、崖に沿って三階になっている。

柏荘は同じ場所にあったが、最近改築したのかピカピカであった。