司馬遼太郎の風景

オホーツク街道秋の旅

モヨロ貝塚、卯原内サンゴ草群生地、常呂遺跡
06/6/7-8 *istD
   
いま脳裏に日本列島の浜辺を思いうかべている。

冬、流氷のくるオホーツク海岸もあれば、春から初夏にかけて黄沙がやってくる東シナ海の浜辺もある。
まことに北から南へながながと島々がつらなっている。

住民はアジア人である。


司馬さんが「オホーツク街道」の旅をしたのは、1991年9月3日〜9日と1992年1月2日〜11日だった。秋の旅では、新千歳空港から女満別空港へ飛び、網走をたずねている。冬の旅では、札幌から旭川へ、稚内からオホーツク海沿岸を南下して網走へ、というルートだった 。

筆者は、冬の旅のルートにそって網走を目ざした

   
 
   
モヨロ貝塚
北海道には自然だけでなく、人文のふしぎもすくなくない。
網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。
その河口の砂丘に、いままで知られていた”歴史的日本人”とはちがうひとびとが住んでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。大正二年(1913)九月で、この人の二十一歳のときである。

   
モヨロ貝塚館は網走市郷土博物館の分館で、貝塚の堆積層が復原保存されている。


貝殻の堆積層。
モヨロ貝塚の堆積層は、8000年前から1000年前くらいのものとされている。

   

オホーツク人の人骨。甕を頭にのせ、胸で両手を組み、両足を腹の上に折り曲げた仰臥屈葬という埋葬形式である。

網走市立郷土博物館は、モヨロ貝塚の出土品を中心に展示している。
   
原内サンゴ草群生地
ウバラナイとはアイヌ語で、河口が死んでいるという意味らしい。
行ってみると、まことにそうで、河口が死んだあたりが湿原で、ただ一種類の草でおおわれている。秋になると、草ぜんたいが朱紅色になる。折からがそうで、踏めば足がめりこみそうなほどの厚さをもった赤い絨毯の原だった。
おとずれたのは6月、サンゴ草は丈も低く青々していた。

「サンゴ草咲く日に」の歌碑。
   
●常呂遺跡
常呂には、たいそうな雑木林がある。
雑木林の規模も大きいが、歳月もながい。遠い縄文時代からここに人が住み、そのあとの続縄文時代のひとびともここに住んだ。さらには擦文時代の人達も住んだ。
常呂の古代はまことに盛大で、数千年のあいだ、幾種類もの文化がここで交代し、おそらく延べ何十万人かの人がここに住んだ。
(注)縄文時代は約4000年前、続縄文時代は約1800年前、擦文時代は約1000年前。
   

「ところ遺跡の森」、後方は「ところ遺跡の館」

森の中にある復原住居。