| 司馬遼太郎の風景 |
近江散歩 |
日野、寝物語の里、柏原宿、彦根城、姉川、安土城址、近江八幡 02.5.23-24 CAMEDIA |
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近江路は春がいい。しかし車窓から見る湖東平野は、冬こそいい。下り列車が美濃に入り、関ヶ原にさしかかると、
吹雪にたたかれる。しかし数分後に近江へのかすかな登り勾配にさしかかれば、吹雪が追ってこなくなる。北近江に
入れば、もう陽が射している。
近江の村々の民家のたたずまいも、以前はよかった。いまはほとんど新建材にかわって失望させられるが、かっては
そのまま茶室になりそうな農家もあった。無名の村寺なども、微妙な屋根のスロープが他の地方とちがっていて、な
にか決定的な美の規準をもっているようにおもわれた。
司馬さんが、この稿のために湖東を旅したのは、1983年12月8日から10日である。車でまわってい
るので2日あればまわれる距離であるが、司馬さんは近江をじっくりと味わうかのように時間をかけている。
近江は、司馬さんが最も好きな場所だったのではないだろうか。
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日野

綿向神社の日野祭に出る曳山をしまっておく山倉。
町内のあちこちで見かける。

近江日野商人館。 |
十三年前の亥年の正月に、にわかに近江の蒲生郡が見たくなった。
地図を見ると、室町時代以来の都市である日野町がある。予備知識をもたずにその町に入ると、大正時代にまぎれこんだような家並(やなみ)だった。
というより、京の中京区を移したようでもある。どの家も木口(きぐち)がよく、街路は閑寂ながら整然としていて、しかもよけいな看板などはなく、品のいい町だった。
蒲生郡日野町を歩いた日は晴れていたが、町をつつんでいる陽の光までがぎらつかず、空に一重(ひとえ)の水の膜でも覆っているように光がしずかだった。
近江散歩は、1983年であるが、司馬さんが日野町をたずねたのは、さらに13年前、1970年のことである。日野の町並みを、大正時代と言ったり、京の中京区と言ったりしているが、1970年ころにはまだ日本各地に古い日本が残っていた。1980年代、バブル経済に浮かれた日本から美しい町並みが消えていった。
日野町では、司馬さんがたずねたころの面影が残っているのではないだろうか。

鬼室神社そばの田んぼで見かけた白鷺。

べんがら格子。日野町で見たのはここだけ。 |
■ 寝物語の里
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近江路のなかで、行きたいとおもいつつ果たしていないところが多い。そのひとつに、寝物語がある。
そこは美濃と国境(くにざかい)になっている。山中ながら、溝のような川(?)が、古い中山道の道幅を横断していて、美濃からまたげば近江、近江からまたげば美濃にもどれるという。
こんどの近江散歩では、そこから近江がはじまるという小溝の場所まで行ってみたかった。
美濃と近江の国境いは、今はほぼ岐阜県と滋賀県の県境いである。県境のやや滋賀県
寄りに、寝物語の里はある。 |

美濃側の畑のやや奥まったところに、芭蕉の句碑が
あった。江戸にあった芭蕉が、伊賀における母の死
を知り、旅立つ。この旅の途次、この美濃境いの寝
物語の里を経、不破の関をこえた。
正月も美濃と近江や閏月 |

軒先に立てば、両国の人は小声で世間
話をすることができる。あるいは、真
夏の寝苦しい夜、軒下に縁台さえ出せ
ば、互いにうとうとしつつも物語がで
きるはずである。 |
■ 柏原宿
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柏原の宿場は、伊吹山の南麓にある。江戸期に、この山中の宿場で、街道に面してもぐさ屋が十数軒あり、明治後は一軒きりになってしまったが、江戸期にはどの店も繁昌していた。
亀屋佐京家は、そのまま残っていた。長大な間口は、広重の絵以上の規模である。「伊吹堂」と、重厚に作られた古風な看板は広重の絵にはないが文字といい、作りといい、色といい、日本に現存する古看板のなかでも有数のものといっていい。。
伊吹堂は、柏原宿のほぼ中心部にあった。玄関は閉っていて中へは入れなかったが、ガラス戸越しに、巨大な福助人形が見えた。畳の上に包装しかけのもぐさがあったので、今でも営業しているようだった。 |
■ 彦根城
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彦根城につくと、どこからか落葉を炊く煙がただよってきた。冬の朝のにおいがした。
私は、石段がつらい。大息をつきながらのぼるうちに、石段の上から十数人の人達が降りてきた。みな五十年配の紳士たちで、制服のように地味な背広にコートといった姿である。
(御家中だな)と、不意におもった。私のように浪人ではない。
←名勝・玄宮園から見る彦根城
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司馬さんの、会社員に対する(御家中だな)という表現には皮肉が込められているような気がする。と同時に司馬さんも元は会社員だったので、なつかしさみたいなもの、集団に属している人たちへのある種のうらやましさを感じたのかもしれない。
司馬さんがいう浪人とは、文化人であり自由人である、と受けとめたい。 |
■ 姉川 近江の城郭/小谷城

姉川橋から伊吹山を見る。 元亀庚午古戦場の石碑。
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彦根から伊吹山の見える方角へむかっている。めざすは、川としては姉川であり、野としては浅井であり、古蹟としては小谷山の小谷城址である。とくにただ一点をいえば、姉川のほとりの古戦場である。おそらく碑でも立っているだろう。
姉川橋(正称は野村橋)はじつに長い。その南の橋畔に、「史跡 姉川古戦場」という標柱が立っている。岸にも河原にも薄が生いしげって、いかにも古戦場といった粛殺とした気分がある。
おとずれたときは初夏、姉川の河原には一面に黄色の花が咲いていた。司馬さんが見たであろう古戦場の看板のほかに、古そうな石碑が立っていた。
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坂道を登るのが苦手な司馬さんは小谷城址には登っていないようである。司馬さんの代わりに登ってみた。
山王丸まで約20分。姉川の合戦後、浅井長政の居城だった小谷城は取り壊され、他の城の建築資材として使用された。したがって、当時の面影をとどめているものはほとんどなく、わずかに石垣が残っていた。
翌日たずねた安土城考古博物館には、小谷城の俯瞰模型が展示されていた。
右下の俯瞰模型の写真で、
一番高いところが山王丸、中間部の勾配がやや緩やかになっているところが本丸。
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■ 安土城址 安土城考古博物館

天主へのメインストリート大手道。 |

石段に使われている石仏。 |
古い地図でみると、山
というより、岬なので
ある。琵琶湖の内湖で
ある伊庭湖(大中の湖
)にむかってつき出て
いる。
この水景のうつくしさ
が、私の安土城につい
ての基礎的なイメージ
になった。織田信長と
いう人は、湖と野の境
いの山上にいたのであ
る。 |
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天主跡の礎石。 |
■ 近江八幡

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冬のヨシの色は、一茎だとただの枯葉色である。それが水面に群生して壁をなすとき、色が色面になる。その色面に夕陽が射すとき、金色に見える。
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