司馬遼太郎の風景

佐渡のみち

2012/10/7-9 PENTAX K20D
   

司馬さんが佐渡島をたずねたのは1976年10月17日から19日。
伊丹空港から新潟空港へ、新潟空港からプロペラ機で佐渡空港へ降りた。

   
加茂湖
空港の位置は、両津湾からすこし入っているが、どこか、海風がにおっている。
両津湾の奥が両津港で、海面(湾)に対し、髪の毛ひとすじといっていいほどの砂の細長い堆土にはばまれて、大きな湖が発達している。
加茂湖である。空港はその加茂湖の西岸にある。「夷潟」と、むかしは呼称されたこともあったらしい。
明治後、防波堤工事をしたときに海水が自由に入るようになり、いまはハマグリなどが獲れ、カキも養殖されている。
   
■熱串彦(あつくしひこ)神社
黄っぽい固土の枝道に入った。車は波間の舟のように上下した。耕運機が通るだけの道らしい。
森に近づくと、一本一本の赤松がどれも立派で、たかだかとした高みに枝葉の冠が森をかざり、
さらに近づくと、やはり神社であることがわかって安堵した。
社殿の正面に向きあうと、その左手にわらぶきの小さな能舞台が、なかば朽ちながら建っている。
おどろいたことに、ちゃんと橋掛(はしがかり)もある。作法どおり斜めにかけわたされ、欄干らしいものもついている。

この神社は非常にわかりにくい場所にある。司馬さんも神社のある森の裏側から入ったと書かれている。
    

森の裏。司馬さんはこの道を歩いた。

神社の正面。狛犬が出迎え、鳥居と社殿が見える。


司馬さんが訪れたときは朽ち果てようとしていたそうだが、平成24年(2012)に改修された。舞台左の欄干が付いたところが橋掛。
   
■二宮神社
林の中は二宮神社である。
社殿の横――向かって左――に、さらに奥へ入る細い径がある。
たどってみると、小さな石垣でかこわれたところにでた。
のぞくと、十五坪の平坦地で、真中に大きな松の木が一幹(ひともと)だけ根を張っている。

二宮神社の社殿奥にあるのは、鎌倉幕府の倒幕を企てて失敗し佐渡に配流された順徳天皇の2番目の皇女忠子の墓。
十八歳で亡くなった忠子の事蹟で唯一残っているのは、忠子が詠んだ歌である。
春の日の 長木の里は 隣より となりつづきに 梅か香ぞする
ここは順徳天皇が住んだ黒木御所跡から近い。
    

順徳天皇の皇女忠子の墓。

順徳天皇が住んだ黒木御所跡。

司馬さんはそのことを書いていないが、ここにも茅葺の能舞台がある。
   
■真野(まの)湾
手前は国中平野で、平野が海に入って白波に洗われている線が、みごとに弓反りに反っている。
その湾入線はセピア色の砂浜で、濃紺の松林が靄をくゆらせながら縁どっているあたり、
かつての播磨の高砂の浦や相生の浦もこうであったかと思わせる。

司馬さんは、佐渡ニューホテルという真野の丘陵地にあるホテルに宿泊し、翌朝、そのホテルから見た真野湾をこのように表現している。
筆者は、真昼の波打ち際で真野湾を見たので、司馬さんとは違った印象を受けた。

    

真野湾恋ヶ浦付近から西を見る。
   
■山本家
この道は小木街道といわれ、北の相川から発し、南の小木港に達する。
江戸時代、佐渡における唯一の官道で、途中、新町という所に本陣がある。山本家がそれである。

ここは山本修之助さんの自宅。
「佐渡のみち」で司馬さんに同行した山本修之助さんは、詩や俳句を通して郷土の文学を考えた文芸家であり郷土史家。

 
   
倉谷の大わらじ
右手の電柱に妙なものがぶらさげられているのを見た。近づくと、牛ほどの容積もあるわらのかたまりが、吊るされている。

「わらじ」ですと、同行してくれた
山本修之助翁がいった。
「ここは倉谷の集落の入口ですが、入口の電柱にこういう大わらじを掛けておくと、悪い者が恐れてむらに入ってきません」

司馬さんは、牛ほどの容積と書いているが、そんなに大きなものではなかった。ときどき作り変えられているだろうから、30年以上前のものに比べて小さくなっているのかも知れない。

「倉谷の大わらじ」は道路地図にも載っている。
   
羽茂(はも)の一里塚
道路の両側に大きな土饅頭が盛り上げられ、ぜんたい八重葎(やえむぐら)がおおおっている。萱もあれば、いばらもあり、土饅頭ぜんたいが雑草の天国のようであった。

これは小木街道の一里塚、小木港から約4kmのところにある。

かつては、小木から相川まで約40kmに9対の一里塚があったというが、今残っているのはここだけ。
   
蓮華峰寺(れんげぶじ)
小木から北へ山中に入ると、巨刹がある。蓮華峰寺という。
小さな比叡山というだけあって、峰や谷に堂宇伽藍の数が多く、それらがたがいに関連しつつ杉木立の中にしずまっている。
小径を降りてゆくと、途中、右側に白木の味が蒼古として寂びた仁王門が一つ建っている。
仁王門を入ると、狭い平坦地に、金堂が建っている。太やかな白木の柱、ずっしりと分厚い白木の板壁がつかわれていて、
総体に佐渡の他の神社の社殿や能舞台などとも共通するにおいがある。
    

仁王門。

金堂。

さらに奥へ進むと、この寺の守護神ともいうべき神社が一つ建っている。「小比叡(こびえ)神社」というふうになっている。
この明治風の名前は当然ながら明治初年の神仏分離の命令によってつけられたものにちがいない。
「山王権現」という古色を帯びた扁額がかかtっていた。
めずらしい遺物というべきで、明治の神仏分離令のときに、取りはずすのを忘れたのであろうか。

小比叡神社。ななんとも風情のある神社。山王権現の扁額もかかっていた。
   
道遊の割戸
佐渡金山は、今は廃山になっている。

よく写真で見る「道遊の割戸」というのは、山の小峰の一つが、大斧で断ち割られたように割れている。むろん、無数の人間がちいさなのみと槌で割ったものなのだがながめていて気持のいいものではない。

あるいは、岩肌に無数の坑口が露出していたりするが、どれを見ても脚もとをさらわれるように感情移入してしまい、自分が無宿人であるかのように、しかもこれら異様な空間の中に立たされてしまっているような思いに襲われる。

司馬さんは道遊の割戸を見て、金を採掘した無宿人へ思いをはせているが、筆者はこの巨大は坑口の造形が美しいと思ったし、無宿人へ思いをはせなかった。

司馬さんが佐渡を訪ねてから30数年、佐渡金山跡はテーマパークのような存在になっている。今、世界遺産への登録を目指して準備中であるが、世界遺産に登録されれば、さらにテーマパーク化が進むのではないかと思う。