中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っているが、いまはわずかな痕跡を凝視して、よほど大きな想像力を働かせなければ、当時の栄華をしのぶことは困難である。
司馬さんが堺をたずねた日ははっきりしないが、1972年か1973年だった。司馬さんは堺からさらに紀州街道を南下し、泉佐野の樫井をたずねている。樫井は大阪夏の陣の戦場となった所である。
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紀州街道を走る阪堺電車(御陵前電停) |

紀州街道道標(西湊町) |
●宿院町

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とりあえず堺における最初の目標をそばやにしたのはわれながら利口とはおもえなかったが、しかし十五、六年前の真夏、その古風な造りのそばやで腰をおろして日盛りの表通りをながめていたときの記憶が、まるで一枚の絵画のように脳裏にはりついて離れないからである。
「それは、堺のどこです」とHさんがきいたが、忘れましたよ、と答えぎるをえない。記憶の中での絵画的固定というものは、前後左右の地理的関係がよくわからないときにのみ、変に色彩があぎやかなものなのである。
ちくまは、旧市街の中央部の宿院町西一丁になる。紀州街道はそういうところにはない。それその表通りは土ぼこりの立つような道ではなく、いつのまにか舗装されていた。
店構えは依然として古風であったが、しかし運わるく月曜日の定休日で、細い格子戸がしまっていた。
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ちくまは簡素な外観のそば屋さんだった。店頭にはすでに来年の営業案内が貼り出されていた。
新春 2004年1月4日(日)より営業致します。5日(月)は休まず営業です。1月13、14連休。
この店の無骨さみたいなものを感じた。そば一筋の職人の店なのだろうと思う。
おとずれた時は朝早くて、残念ながら営業時間前だった。ちくまの営業時間は、午前10時半〜午後9時半、月曜定休。 |
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●南宋禅寺

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「南宋禅寺」と刻まれた山門の前に出た。門の屋根の下でしばらく雨が小降りになるのを待った。
やがて山内に入り、長い石畳をつたった。濡れた石畳の冷たさが一歩ごとに靴底からつたわってくるような冷えぐあいである。やがてひろい域内に入ると、松林にも楼門にも白くつづいている塔頭の塀かげにも、どこにも人影がなかった。
結局、断わりなしにそのあたりを歩きまわるうちに、枯山水の庭園に入りこんでしまった。古田繊部の作庭といわれている庭とはこれであろうか。
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庭に面した縁。石の踏み台に下駄。 |

千利休遺愛の手水鉢。 |

瓦が埋め込まれた土塀。 |
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●西湊町

旧堺湊郵便局(昭和8年開局) |

紀州街道・西湊町の町並み。 |

おとずれた日は神社の秋祭りだった。 |
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このあたりは西湊町一丁と言い、明治以前の堺市街では郊外になるらしい。堺市には昭和元年前後に合併されたが、旧市街が戦災や都市計画で昔の面影を残していないいまとなっては、往年の堺の町のにおいが嗅げるのは、この紀州術道あたりぐらいかもしれない。
道は狭く、家並の二階は低く、そして人通りがない。道を濡らしている雨が、みぞれまじりになっている。
雨も小降りになったので町並を歩いてゆくと、左側に船待神社というのがあった。天満宮になっていて、菅原道真をまつっている。日本史は外にむかってひらく時期と、それに懲りて極端に内に寵る時期をくりかえしてきたが、奈良朝、平安初期を通じ、対唐接触がさかんでありすぎた時代が去り、むしろ外よりも内に籠ろうとした政策を意図的にとった政治家が、菅原道真である。道真はやがて藤原氏の陰謀で九州の大軍府へ流されるのだが、そのときに船待ちした場所が、この船待神社だという。
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