砂鉄は、花崗岩や石英粗面岩のあるところなら、どこにでもある。問題はそれを熔かす木炭である。
「一に粉鉄、二に木山」というように、古代にくらべて熱効率のいい江戸中期の製鉄法でも、砂鉄から
千二百貰の鉄を得るのに四千貫の木炭をつかった。四千貫の木炭といえば、ひと山をまる裸にするまで
木を伐らねばならない。木炭四千貫といっても、江戸期のやり方ならわずか三昼夜でつかってしまうの
である。
砂鉄というのは花崗岩の砂礫のなかにわずか数パーセントふくまれているにすぎない。しかし鉱石とち
がってほぼ遍在しているといってよく、である以上、鉄が作られるためにもっとも重要な条件は木炭の
補給力である。樹木が鉄をつくるといっていい。
司馬さんが、「砂鉄のみち」の取材で中国地方をたずねたのは、1975年1月6日からの3日間であった。本文からその旅程を追ってみる。
1月6日 伊丹空港から米子空港へ、
昼食は、空港食堂で出雲そば。
安来市の日立金属・和鋼記念館。
横田町の鳥上木炭銑工場。
皆生(かいけ)温泉泊。
1月7日 出雲加茂町の光明寺。
吉田村菅谷たたら。
湯原泊。
1月8日 美作加茂町のたたら遺跡。
津山市の百済家。
帰途へ。 |
たたら製鉄について
詳しく知るには最適
な本。
『和鋼風土記』
角川選書183
山内登貴夫
1975年
1200円 |
われわれは、すでに中国山脈の中にある。
斐伊(ひい)川の上流の三刀屋(みとや)川という川が渓谷をなしていて、その川沿いの道路をさかのぼっ
ている。目標は、飯石(いいし)郡吉田村という山村に置いていた。
車の中で、国土地理院の二十万分の一の地図をひろげた。「吉田」という地名は、じつに小さい。この
吉田村の山に、菅谷(すがや)タタラがある。往年、稼働していたままの建物と設備がそのまま遺されて
いるのである。
司馬さんがおとずれた時には、斐川町の荒神谷遺跡も、加茂町の加茂岩倉遺跡もまだ発見されていなかった。このふたつの遺跡の発見は、この地域が鉄だけではなく優れた青銅器文化圏であったことを物語っている。遺跡発見後であったなら、司馬さんはかならずや両遺跡をたずねたにちがいない。
この旅のハイライトは吉田村菅谷たたらである。わたしは、「街道をゆく」の題字を書いている棟方志功さんの展覧会が松江市の県立美術館が開催されていたので、その時期に合わせて、三次から吉田村を通って松江経由で安来へ向かった。 |
■ 和鋼博物館
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和鋼記念舘の庭前の桂は春がまだ遠いために、
枝ばかりが寒空の下でふるえていて、葉のし
げるころの桂とおなじ桂かと思いたくなるほ
どに貧相である。
「つまらん木ですな」Hさんが、腹立たしげ
につぶやいた。
さらに、庭先に巨大な隕石のようなものが二
つ、露天展示されている。ケラ(ヒ)である。
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司馬さんが訪問した安来市役所近くの日立金属の和鋼記念館をさがしたが見つからなかった。ケラの実物が
見たくて、安来市の和鋼博物館をたずねた。
博物館前には、横田町などで生産されたケラの大きなかたまりが横たわっていた。このケラには、小さな雑
草がはえていた。植物は、鉄を養分にして育つことができるのだろうか。
■ 光明寺 光明寺の八重櫻
石段をのぼりきると、峰を背負った本堂の建物が異様だった。アメ色の石見(いわみ)瓦でふかれた二層のお
堂で、この白木の建物のぜんたいの形があまり他に類似のものがなく、第一層には、「光明寺」という、古
拙な文字の扁額がかかっている。
この小ぶりで建物の線の簡勁すぎる景観に、須田画伯はぼう然と仰いだきりであった。
「いい建物です」こういう建物を見ていると、絵を描くも何もありゃしません、とつぶやいている。
庫裡(くり)にまわって案内を乞うたが、無人のようだった。鐘楼が、谷にむかって突き出るような位置にあ
って、古朴ながらひどく優雅でもある梵鐘がぶらさがっている。鐘楼の横木に足をかけて刻銘をさがしてみ
たが、なかった。

美しいたたずまいの山門。 朝鮮渡来、現存する54個の鐘のひとつ。
■ 菅谷(すがや)たたら 関連ページ たたらの里・吉田
掛合町の山峡に入りこんでいる細流のひとつが吉田川だが、この流れにさからって道をたどるうちに残雪が多くなり、やがて地形が迫(さこ)になってく
る。吉田村である。
もし桃の花がひらいていれば桃源郷というにふさわしく、掛合あたりからみれば奥地というよりも、隠れ里といったほうがふさわしい。
屋内に入ると、中央にずっしりと炉(たたら)がうずくまり、それをはさんで二基の天秤(てんびん)フイゴが竜騎兵のように立っている。
桂の古木のそばで菅谷の高殿(たかどの)が雨に濡れていた。
この土製の炉は、ヒ(けら)が出来あがるたびにそれを取り出すためにこわされる。だからいわば消耗的な装
置だが、地下構造はそうではない。タタラの内部の火力をあげるためには、湿気を去り、熱が逃げるのを防
がねばならない。そのために地下構造に、よほど大規模な土木工事がおこなわれる。
炉のまわりは、一見よく踏みかためられた土間にすぎず、この土の下に、延べ千人以上の労働力をつかって
大工事がほどこされているということは、よほどの想像力でも、ちょっとわからない。

たたらの炉と竹パイプのフイゴ。たたら従事者の集落・山内(さんない)
たたら製鉄の経営者田部(たなべ)家。
荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡
斐川町の荒神谷で銅剣358本が発見されたのは1984年、銅鐸6個・銅矛16本が発見されたの
が1985年であった。そして、隣町の加茂町岩倉では1996年に36個の銅鐸が発見された。
発掘当時の様子が復元展示されている荒神谷遺跡。発掘地点が土嚢でふさがれている加茂岩倉遺跡。
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