司馬遼太郎の風景
2004

郡上・白川街道

郡上八幡、荘川、平瀬、上梨、赤尾、菅沼
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司馬さんが白川街道へ旅したのは1972年秋ではないかと思う。
岐阜羽島駅で新幹線を降りて、国道156号線を北上し、途中、上平村の赤尾で一泊し、富山市へ抜けている。
「たまたま富山に用事が出来たのを幸い、出かける以上は太平洋岸から日本海岸にむかってぬけ通っている道をたどりたい」
という思いからだった。 
関連ページ 白川村/荻町

郡上八幡
 

 日本の山城の典型のひとつは、長良川上流の郡上八幡城である。

 この天守閣は、大阪城と同様、昭和初年に模造されたものであ
る。しかし模造も古びてしまえば自然の中で実在感を帯びはじめ
るらしく、決して違和感を感じず、いかにも隠国の城といったふ
うの感じだった。

  郡上八幡 出てゆく時は

  雨にふらぬに

  袖しぼる

 という民謡は、この山里から出稼ぎのために南のほうへ出てゆ
くときの想いをうたったものにちがいないが、われわれはこの唄
とは逆に日本の脊梁にむかって北行している。

関連ページ 水の郷郡上八幡

荘川

 「荘川桜」とあって、右がいまは湖底にある光輪
寺の境内に悠然と陽をさえぎっていたものである。
左が、照蓮寺の境内にあった。どちらも四百年ほど
の樹齢で、移植に大きな金と人手が要っただろうと
想像させられた。一本が土もろとも四〇トンあった
という。


司馬さんが荘川桜のそばを通ったのは秋、桜の季節
ではなかった。司馬さんはこの桜を通して、湖に沈
んだ家霊や樹霊へ思いを馳せた。

関連ページ 荘川桜









 

●平瀬、上梨
 白川谷の平瀬という部落に着いたのは、午後四時ころである。
この村でかつて遠山家といった家の合掌造りの屋敷が、そのま
ま村立の民族館になっている。→
旧遠山家住宅


旧遠山家民俗館
司馬さんは上梨に44戸の合掌造りがあると書いているが、
現在は数えるほどしか残っていない。
 上梨の集落は荘川の流れが削っている渓谷のわずかな平地にあ
る。字には四十四戸の合掌造りの集落があるそうだが、しかし、
この集落に入ったのは夜で、わずかに点々とみえる灯をとおして
景観を想像するしかない。

 道路に面して、妻入りの大屋敷がぬっと立っている。かやぶき
の四階だてで、夜目のせいか、とほうもなく大きくみえた。

村上家住宅



村上家

赤尾

室町末期におけるこの越中五箇山のひとで、赤尾の道宗(どうしゅう)という人物がある。
私が泊まった宿の当主の姓は、道宗(むねみち)と言い、道宗という名前を姓にしたものだが、赤尾の道宗の子孫だというのである。
道宗は僧ではなく、在家の身ながらこの白川谷一帯に浄土真宗をひろめたひとというにすぎない。
 村上家を辞したのは、夜七時半ころである。

 当夜の宿の所在地は、すこし道をひっかえすかたちになる。
赤尾という在所の赤尾館という宿である。

 暗い夜の中をくぐりぬけてきたせいか、食膳の用意された
小座敷がまばゆいほどにあかるく感じられた。


赤尾館。司馬さんが泊った時と同じ建物かどうかは不明。

 宿のむかいは、行徳寺である。山を背負っているこの寺が赤尾
の道宗の屋敷跡であり、宿の主人と同様、道宗の子孫のひとが住
職をしておられる。

 寺は、一見寺らしくもなかった。白川谷の寺の特徴である積木
細工にわらをのっけたような門がもしなければ、ふつうの合掌造
りの屋敷のようにも見える。建物は三百年をへているという。


行徳寺。右手の茅葺きは庫裏。
菅沼

 なるほど、越中へくだってゆく途中は山また山で、途中、山里
などはまれにしかなかった。もっとも、荘川沿いには多少の人家
がある。菅沼という合掌造りの集落は集落ぐるみ国指定の史跡に
なっている。その異風な建物と建物のあいだの細い道を歩いてい
ると、ふと異国にいる思いがして、同行者をときどき見確かめる
気持ちになる。

 「日本も見すてたものではないですな」
 と、詩人のTさんがいった。


関連ページ 上平村/菅沼 平村/相倉