司馬遼太郎の風景 島原・天草の諸道
島原市、口之津町、天草西海岸、天草町大江、河浦町崎津 |
司馬遼太郎さんは、1980年2月1日から5日まで島原から天草へ旅をしている。大村空
港から諫早を経て島原へ、島原半島をさらに南下して口之津へ、口之津から船で天草へ渡り、
本渡・富岡に立ち寄り、天草西海岸を南下し大江・崎津で旅を終えている。
その紀行を『週刊朝日』に連載したのは、同年の4月4日号から12月5日号までであった。
単行本のページ数にして約300ページ、『街道をゆく』のシリーズの中では大作に入る。
わずか5日間の紀行の取材ノートをもとに、従来から持っていた見識に加え、旅以後にさら
に見識を補強することによって、これほどの大作に仕上げたものであろう。
地方には、その地方を代表する時代がある。長州路を代表する時代が幕末であるように、こ
の地域は、天草の乱を抜きには考えられない。この紀行でも、天草の乱をはじめ16世紀の時
代を中心にえがいている。
車を降りてから、この城が眉山(まゆやま)とちかぢかとむかいあっていること知った。
海ぎわの島原市街に対し、市街を追いおとすような勢いでそびえているこの休火山の山容は大きすぎて気味わるいほどであった。
雲仙温泉で有名な雲仙岳は、いくつもの連峰が盛りあがってできている。普賢(ふげん)岳、妙見岳、高岩山、矢岳、吾妻山などがそうだが、そのうちの眉山(眉岳)が、島原市街の背後に立ちはだかっているのである。
二十年ばかり前、陸路この町にきて、海路、熊本県の三角(みすみ)港へ去るとき、船上からこの眉山を見ておそろしさを感じたことがある。
司馬さんが旅したのは、普賢岳が噴火する以前である。司馬さんは、眉山をおそろしいと感じたが、もし普賢岳噴火後に旅していたら、普賢岳をおそろしいと感じたにちがいない。
今は、眉山が普賢岳から島原市街を守っているように見える。
18世紀末に噴火した眉山、20世紀末に噴火した普賢岳、有明海に向ってそそりたつこのふたつの山は、天草の乱やキリシタン弾圧の歴史を見てきた。
島原外港行きのフェリーから眉山と普賢
岳を望む。94/6/4 CanonNewF1/135mm

口之津燈台のそばを天草鬼池からのフェリーが口之津へ
向う。93/8/29 NikonF4s/24-50mm |
島原半島は、有明海に対して拳固(げんこ)
をつきだしたようにして、海面から盛りあが
っている。
拳固から小指だけが離れ、関節がわずかに
まがって水をたたえているのが、古代からの
錨地(びょうち)である口之津である。
人間は自然に依存するもろい生きものにす
ぎない。そのことは、陸(おか)にいるときよ
り海にうかんでいるときにはなはだしい。
船と称されている材木の切れっぱしに帆を
立てたものに乗るとき、風浪のままに動き、
あるいは風浪が追っかけて来ない海岸線の切
れこみのなかに遁(にげ)こむ。
島原半島に入るには、陸路はこの半島の柄
の部分である諫早方面からの道があるにすぎ
ない。しかし外界からくる者は、多くは船に
拠った。
船でくる者は、みな口之津をめざした。こ
の図体(ずうたい)の大きな半島にとってただ
一つ開いている小さな口ということで、口之
津という地名はまことに実感的なものであっ
た。 |
司馬さんは、口之津では、口之津公園や旧長崎税関口
之津支庁の廃屋などをたずねている。そののち、口之津
港からフェリーで天草の鬼池に向った。
司馬さんは、口之津港の入口・土平崎に立つ明治13
年建造の白亜の燈台を目にしただろうか。
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明治32年建造の旧長崎税関、今は口之津歴史民俗資料館。
93/8/29 CanonT90/28mm |
天草鬼池へのフェリーの徒歩客は、われわ
れのほかに数人いるだけだった。
船が口之津港を出てゆくとき、岬の突端に
ある旧税関の茶色っぽい建物が風景によく適
(あ)っていた。
朽ちくずれるままに放置するよりも、大蔵
省から町に払いさげてもらって、こんにちま
での口之津のすべてを語る博物館にすればど
うだろうと思ったりした。
港外にでると、天草諸島の下島(しもしま)
とのあいだに、有名な早崎瀬戸の急流がなが
れている。
その速さは、鳴門、下関に次ぐといわれる
が、時間がそうなのか、船上から見てもさほ
どの急潮とも思われない。
ともかくもこの急潮をさかいに、島原世界
から天草世界に変わってゆくのである。 |
司馬さんが願ったように、旧長崎税関口之津支庁舎は資
料館として活用・保存されている。司馬さんは、旧税関が
岬の突端にある、と記述しているので、岬から今の場所へ
移築されたのではないだろうか。 |
どうも、日本海や北太平洋の水平線とはちがっている。
頼山陽が「呉耶越耶(ごかえつか)」といったり、与謝野晶子が「江蘇省より秋風ぞ吹く」と詠んだりしたのは、気分として大げさではなかったことがわかる。
水平線そのものが、はるかな未知の境いから文明の響きをひびかせてくるような気がする。
「天草というのは、山も海も、ものを言っているみたいですね」
右側の水平線を見ていた須田画伯が、いった。
たしかに海だけでなく山も物を言っている。左側は、山というより、岩というべきかたまりがつづいている。まことに急峻で、南にくだるにつれ、道路は海面よりはるかに高くなる。
司馬さんが天草西海岸を南下したのは2月はじめ、海から吹く風は冷たく、波も荒れていたことだろう。
妙見浦に代表される天草西海岸は、東シナ海へつづく穏やかな水平線が広がっているが、岸は断崖で、ごつごつした岩に荒波が打ち寄せ、しぶきをあげる。
晩秋の妙見浦、真冬の海のように荒れていた。
93/11/14 CanonT90/135mm

昭和8年、天主堂建築家・鉄川与助が設計した大江天主堂。 丘の斜面に立つ。
92/10/17 NikonF4s/24-50mm 92/10/17
NikonF4s/70-210mm
私は、この大江天主堂の里(野中)にくるについて、
同行の編集部の山崎幸雄氏の知人である浜名志松(は
まなしまつ)氏の同行を得た。
氏は天草研究家である一面、この大江村をふくむ天
草町の教育長でもある。高浜の台上の町役場で会い、
峠を越えてこの大江村まで連れてきてくださった。肥
後に多い重厚な風貌の老紳士である。
「現在、大江の村は、キリスト教徒は百戸です」と、
白亜の天主堂の前で、いわれた。
大江村の戸数はきき洩らしたが、この山村で百戸な
らば多いほうであろう。
とくに天主堂のある野中という集落は、水田がほと
んどなく、江戸時代から貧しかった。
いまもほとんどが出稼ぎだというが、そういうひと
びとが、この山中にあって目のさめるほどにりっぱな
お堂を維持しているのである。 |
司馬さんは、大江を村と記述している。198
0年当時、大江は村だったかどうかはさだかでは
ない。
行政上の村という意味で使っているのではない
かもしれないが、今は天草町にある。
司馬さんも、明治25年に赴任し、赤貧のなか
で、この天主堂を建てたフランス人・ガルニエ神
父に思いをはせている。
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羊角湾のほとり、集落の中に立つ昭和10年建造の崎津
天主堂。92/10/17 CanonT90/135mm
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青空に映えるゴシック様式の聖堂。
92/10/17 CanonT90/28mm
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崎津は、小さな町である。
羊角湾のなかほどにあり、背後からせり出してくる
山が、家並を海へ押しおとしてしまいそうになるほど
に平地(ひらち)がすくない。
町のにおいは、熊本県下の町より長崎の町にどこか
似ている。というより長崎を圧縮して、暮らしのにお
いでよごしたような町で、その狭く深い水面が、濃す
ぎるほどの青さでもって、町の色彩の無秩序さを力づ
よく浄化しているといっていい。
崎津の町では、むかいあう軒端(のきば)に自転車が
身をねじるようにして入ってきては、徐行してゆく。
そういう道のゆきどまりに、崎津カトリック教会(天
主堂)の尖塔がみえた。 |
司馬さんは、島原・天草の旅を崎津でしめくく
っている。この旅をしめくくるには、一番ふさわ
しい町ではないだろうか。
司馬さんは、「町の色彩の無秩序さ」という表
現をしているが、この描写はよく理解できない。
確かに、色彩が感じられない町ではあるが、無秩
序だとは思えない。
わたしは、この町の無彩色なところが好きだ。
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