司馬遼太郎の風景 竹内街道 石上神宮・大神神社・竹内峠 2003.4.12 CAMEDIA

言霊というふるいことばはわれわれにとってなるほどいまも怪しく、「倭は国のまほろば」などと仮にでもつぶやけば、私の脳裏にこの盆地の霞がかかった色調景色が三景ばかり浮かびあがり、それらのネガはいずれも少年の頃に焼き上がったらしく、いまの現実の奈良県の景色とはずいぶん違っている。

大和はすでにいまの奈良県にないか、もしくは残り少なくなっているものの、この布留の石上の森には測りしれぬ古代からつづいている大和の息吹がなお息づいているといった感じなのである。つまり大和の土霊の鎮魂の「振る」なる作用がなおもこの石上の森には生き続けているように思える。

竹内街道は、堺市から竹内峠を越えて當麻町長尾に至る約26kmの街道である。司馬さんは、幼少年期を長尾のすぐ西にある竹内ですごした。

街道をゆく「竹内街道」では、當麻町から堺へ、または堺から當麻町までの紀行かと思っていたら、山の辺の道の石上神社から竹内峠までの紀行であった。竹内峠で車が故障し、紀行を中断せざるをえなかったという事情もある。

司馬さんが竹内街道を紀行した時期は1970年ではないかと思う。

 
 ブロック塀の一部となった竹内の
  道標。「右 よしの つぼさか道」

石上神宮

「布留」というのが、このあたりの古い地名である。古代人にとって、神霊の宿るかのような景色だったのであろう。神にかかる枕詞である「ちはやふる」のふるがそうであり、神霊が山谷にいきいきと息づいておそろしくもあるという感じが振るという言葉にあるように思われる。
 

石上神社参道。布留の森への入口。

  
  境内で放し飼いにされているニワトリ。

「布留」の文字が刻まれた手水鉢。



 

大神神社

   
三輪山は、すぐそこだった。
   長い杉木立の参道を歩かねばならないが、その入口で車を降りた。


砂利の敷かれた長い参道。
「この神社の名前は、ややこしいですね」と、編集部のHさんは、杉木立の参道を歩きながらいった。まったくそのとおりで、このお宮は通称、「三輪明神」もしくは三輪神社と言われながら、活字の上の正称はそうではなく、大神神社と書いてオオミワジンジャとよませるのである。


雨上がりで、社殿の屋根から湯気が立っていた。

竹内峠

   大和国北葛城郡竹内というのが、竹内峠の大和側の山麓にある。私は幼年期や少年期には、竹内村の川村家
   という家で印象的にはずっと暮らしてきたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、母親が脚気
   であったためその隣の村の今市という村の中川という家で乳を飲ませてもらっていたから、竹内峠の山麓は
   いわば故郷のようなものである。


竹内集落の西の入口付近を国道166号線側から。


竹内集落の中ほどにある綿弓塚

「大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内といふ所はかの千里が古里なれば、日ごろとどまりて足を休む」(『野ざらし紀行』)とあるように、、芭蕉は門人千里をつれて竹内に立ち寄った。綿弓塚は、そのときに詠んだ句を記念して文化6年(1809)に建てられた句碑。

「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」 松尾芭蕉    
正面から見ると、葛城の山が大和盆地にむかってなだらかに山裾を引き、竹内街道が赤土の坂になって、山へ登る。坂の登り口に長尾の所在があり、その中腹あたりに白壁の村があり、それが竹内である。

私が、昭和18年の秋にこの竹内への坂を登ったとき、多少いまから思えば照れくさいが、まあどうせ死ぬだろうと思って――兵隊ゆきの日がせまっていたので――出かけたのだが、坂を登ってゆくとその坂の上の村はずれから、自転車で転がり降りてきた赤いセーターの年上の女性(といっても二十二、三の年頃だとおもうが)がいて、すれちがいざまキラッと私に(?)微笑し、ふりかえるともう坂の下の長尾の家並みの中に消えていて、ばかばかしいことだがいまでもその笑顔を覚えている。

どこの娘だか知らないし、むろん先方も私を知らなかったに違いないが、要するに彼女にとって自分があまりに猛スピードでころがりおちてきているため、私とすれちがいざま、自分のお転婆ぶりがはずかしく、つい笑顔が弾けてしまっただけで、他意はなかったにちがいない。しかし当方としてはそれだけでしばらくボンヤリしてしまい、にわかに恋が襲ってきたような気がして――あほらしいが、それほどあの時代の青春はまずしかったように思われる。



カミノ池。むこうを走るのは国道166号線。

竹内街道の東の基点・長尾神社の境内に車を置かせてもらい、司馬さんが幼い頃泳いだという峠の途中にあるカミノ池まで歩くことにした。司馬さんが歩いた30数年前は未舗装だったが、今は舗装されている。車がやっと離合できるくらいの道幅であるが、車がかなりのスピードで走ってくるので、のんびりと歩けないのが残念である。

司馬さんは、この紀行なかで、昭和18年の竹内での娘との出会いを書いている。司馬さんがこのようなことを書くのはめずらしく、死をなかば覚悟した人の心情がひしひしと伝わってきて、せつなくなる。


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司馬遼太郎の風景]