司馬遼太郎の風景 |
十津川街道 |
五條市栄山寺、大塔村天辻峠・猿谷ダム
十津川村谷瀬の吊橋・風屋ダム・玉置神社 2000.9.13 |
十津川郷とは、いまの奈良県吉野郡の奧にひろがっている広大な山岳地帯で、十津川という渓谷が岩を
噛むようにして紀州熊野にむかって流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という人文・自然地理の概念に
これほどあてはまる地域は日本でもまずすくないといっていい。
こんにちなお、町村合併に応ぜず「村」を呼称している。村そのものが大山塊だが、その無数の山々の
しわをのばして平坦地の面積にすると、昭和初年までの東京市のひろさにほぼ匹敵するという。「村」
としての面積でも日本一だが、人口密度においても一キロ平方あたり十数人で、古来、その過疎ぶりま
でが日本一だとして村人たちは自慢する。
司馬さんが十津川街道を旅したのは、1977年9月12日ー14日である。わたしが十津川街道を走行したのは9月13日、奇しくも司馬さんと同じ季節におとずれたことになる。
司馬さんは、「街道をゆく」の中で十津川を秘境と表現しているが、現在では、国道168号線として道が整備され快適に走れる。自然が美しいところであるが、秘境という感じはしない。
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■ 栄山寺
私の記憶の景色では境内に雑草がくまなくしげっていて、そのなかに小さな八角堂がひっそりと建っており、
他は桜と雑木の林と吉野川のせせらぎだけといった風景で、ナイフで切ったような残月でも出ていれば凄味
が増すだろうという感じであった。その八角堂というのは奈良朝の創建当時のものだが、建物からうける感
動よりも、川原の浅茅ケ原といった印象のほうがつよかった。

天平建築の国宝・八角円堂。 参道の白萩。
■ 天辻峠
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五條から入ってくる山路は、行政区分の順にいえば、西吉野村、大塔村、十津川村というふうになる。
天辻峠は、はるかな奥の十津川郷にとっては北方の関門にあたるのだが、しかし大塔村のなかにある。
←天辻峠から谷を見ると山腹に民家がぽつんと
建っていた。五條では晴れていたが、峠にさ
しかかる頃には雨になっていた。 |
■ 猿谷ダム
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天辻峠の坂をおりたところが、大塔村の阪本である。
渓流が、阪本のあたりで細長いダムになっていて、
青すぎるほどの水を澱ませている。このあたりの山
中に猿谷とういう在所があるところから、「猿谷ダ
ダム」とよばれている。
←雨上がりで満々と水を蓄えた猿谷ダム。
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■ 谷瀬(たにぜ)の吊橋
橋畔にたてふだがあり、昭和二十九年に八百万円の工費でできた旨、書かれている。この大吊橋の利用はむ
ろん十津川郷ぜんたいというわけではない。谷瀬とその奥のひとびとにかぎられるために、そのあたりのひ
とびとが一戸あたり三十万円の負担金を出しあって架橋した。当時の三十万円はよほどの大金だが、ともか
くもこの山村で中世以来発達してきた独特の公の意識を知る上で多少の参考になる。

■ 風屋ダム
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ダムは風屋でおわる。
そのあと、道路と渓流をはさむ両側の山壁の間隔がせまくなるころ、野尻をすぎた。野尻でわずかに人家を見たが、以後、人里のにおいが絶え、渓谷の岩壁が黒ずみ、夕暮れのあえ
いか山水に凄味が漂いはじめた。
←風屋ダムの放水。豪雨のあとで、
あちこちのダムで放水がおこな
われていた。 |
■ 玉置(たまき)神社
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木立のなかに、桧皮ぶき、入母屋造りの豪壮な社殿が見え、
とてもこれが郷社程度の社格とはおもわれない。社殿に隣
接して、路傍からたかだかとせりあがった石垣の上に鎌倉
の地頭の館のような建物が構築されている。いまは社務所
だが、明治の神仏分離以前は高室院という別当寺(宰領者
のいる寺)であった。
←きらびやかな玉置権現の扁額 |
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