司馬遼太郎の風景 長州路 下関市/壇ノ浦、山口市/瑠璃光寺/藩庁跡、津和野町/野坂峠/殿町

 司馬遼太郎さんが長州路を旅したのは、1970年6月10日から3
日間ほどと思われるが、梅雨の真っ只中であり、雨に降られたようだ。
車を貸切り、国道2号線から9号線へと移動している。当時、中国自動
車道は、まだ開通していなかった。

 この旅で、防府市三田尻、下関市壇ノ浦、山口市、津和野町、益田市
をまわっている。萩の記述もあるが、この記述は別の機会にたずねたと
きのものである。

 長州は、幕末から明治維新にかけての歴史の転換期にかかわる人物を
排出した土地であり、長州路には大きな関心があったようだ。『街道を
ゆく』の5番目の街道として、長州路を選んだのは、そのあらわれであ
り、愛着を込めた語り口で紀行が進んでゆく。

 ご自身でも言われているように、時には演説口調になるが、知識の豊
富さ、歴史への独特の切り込み方、洒脱な言葉遣い、次第に読者を歴史
の街道へと誘い込んでゆく。

tyosyuji-sekihi.jpg (54000 バイト)
奇兵隊ゆかりの地・下関吉田
に建てられた『街道をゆく』
の記念碑。

akamagu.jpg (166604 バイト) 最初、この長州馬関に行ったとき、「阿弥陀寺という寺はどこにありますか」と、土地のひとにきいて笑われた。明治以降、神社になってしまっているという
のである。

 「赤間宮がそうですよ」といわれて、なんだとおもった。赤間宮の石段の下で土地のひとにきいたのである。

 見あげると、竜宮のような丹塗りの楼門がそびえており、回廊や殿社がそれをとりまき、ことに海上からこの楼門を仰ぐとじつにうつくしい。

 司馬さんは独特の改行を入れる。ここでは横書きという制約もあり、原文にはしたがっていない。
  
赤間宮境内から楼門越しに海峡を望む。
    89/6/11 CanonNewF1/85mm

rurikoji.jpg (207762 バイト) 車がいくつかの暗闇をくぐりぬけて坂にさしかかると、急に視界の一部があかるくなった。雨の中で瑠璃光寺の塔が、下から照明されて立っているのである。

 塔の光に映えている青葉が、あざといほどに青く、その青葉を裳裾(もすそ)にして立つ塔は、おそろしいばかりの古色を帯びている。

 「ちょっと、降ります」と、運転手に声をかけたものの、この大雨では多少の勇気が要った。浴衣を尻っぱしょって、下駄をぬいだ。宿でかりた番傘をひらくと同時に雨中に飛びだした。まるで大内氏の雑兵のようなかっこうであった。

 駆けて行って塔の下までたどりついたときはもう肩から濡れそぼってしまっていたが、正面の塔の古色が尋常でないために自分が幻想の舞台にとびあがってしまったようで、雨どころではなかった。

 (長州はいい塔をもっている)と、惚れぼれする思いであった。

 
湯田温泉に宿泊した司馬さんは、激しい雨の中、浴衣姿で瑠璃光寺五重塔へ行っている。1970年当時すでにライトアップされていたようであるが、今の照明よりかなり暗かったのではないだろうか。「青葉を裳裾(もすそ)にして立つ塔」、その印象は今もかわらない。
  夜の瑠璃光寺五重塔。
    92/12/29 NikonF4s/24-50mm

kentyo.jpg (172532 バイト) 朝、雨があがっていた。山口市を離れる前に県庁の前を通っておこうとおもった。この県は、県庁舎そのものが旧蹟である点でめずらしい。

 長州藩では、「山口の政事堂」といったり、藩庁とよばれたりしていた。

 萩へ行け。と、関が原のあと、幕府は長州侯を日本海岸に追いやったことはすでに触れた。長州藩はすっと萩で我慢した。

 が、万延元(1860)年大老の井伊直弼(なおすけ)が江戸桜田門外で暗殺され、幕威がにわかに落ちたのをみて、その翌年の文久二年、そっと藩庁を山口に移したのである。

 県庁の前に出た。文久三年に建てた政事堂は、旧のまま県庁の門としてつかわれている。

 まわりに堀がめぐらされているが、この堀の水は防衛よりもむしろ潅漑のためのものであったらしい。長州人のぬけめなさがわかるであろう。

 堀には鯉が泳いでいる。無数にいる。「千ビキはおりましょうな」と、この稿をかくにあたって、念のため朝日新聞の山口支局に電話をかけてみると、そういう返答であった。

  藩庁跡の堀、向こうに藩庁門が見える。
  92/5/3 CanonNewF1/28mm


  藩庁跡には、大正5年に煉瓦造りの県庁舎と議事堂が建てられ、今はその背後に庁舎ビルが立っている。
   旧庁舎と議事堂は、国の重要文化財に指定され保護されている。

tuwano.jpg (215183 バイト) 「野坂峠から松明を投げおろせば、津和野城下はたちまち火になる」といわれていたように、この城下はノボリ窯そっくりの地形をしている。

 こういう地形のもとで城下町を営まざるをえなかったひとびとの意識には火に対する濃厚な恐怖があり、それが武に対する恐怖にもつながっているにちがいない。

 この学問好きの小藩から明治後も軍人が出ることがきわめてすくなかったのは、当然といえるかもしれない。

 「野坂峠へのぼってみましょう」と、私は同行の詩人Tさんにいっていながら、車の中でうたた寝をしてしまって、いつのまにか徳佐をすぎ、藩境をこえ、あわてて目をさましたときは、津和野の町を見おろす山腹の道路上に出てしまっていた。

 「なるほど、スリバチの底に町がありますな」と、車から降りたTさんは路傍へ身を運び、町をのぞきこんだ。

  このあと、ふたりで立小便をするくだりがある。  司馬さんが野坂峠のどの地点から津和野の町を見たかはさだかではないが、おそらく旧国道からではないだろうか。ここからは、町が一望できる。1970年当時、やまぐち号はなかったが、現役の蒸気機関車が走っていた。
   旧国道からの俯瞰。左の方に町は広がっている。
   85/11/17 MamiyaC330f/180mm

tuwano-tonomati.jpg (94607 バイト)
津和野のシンボル、掘割りと鯉。
75/7/27 CanonFtb/35mm




    
 「史蹟と鯉の町」と、町から出ているパンフレットに書かれている。ついでながら津和野は市ではなく、町である。鯉の数のほうが人口より多いという。

 殿町とよばれる大身(たいしん)の武家屋敷のみぞにも鯉がむれている。町を貫流する津和野川にも多い。ウグイもいる。たれも獲らないのである。

 「鯉、そんなものは獲りませんよ」、往来で出あった老婆にわけをきくと、にべもなくそう言った。彼女はむしろこの質問におどろいた様子で、人間というものは共有の鯉など獲らないものだとごく自然に信じているようであった。

tuwano-tonomati2.jpg (63110 バイト)
鷺舞で知られる夏祭りの指し物が立つ。
75/7/26 CanonFtb/35mm