司馬遼太郎の風景
2004

羽州街道

立石寺、米沢城址、林泉寺、最上川、春雨庵
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司馬さんが山形県を旅したのは、1976年9月23日〜26日の4日間だった。 司馬さんは山形県ははじめてだった。
山形空港に降り立ち、立石寺へ直行し、山形県南部をぐるっとまわって山形市で旅を終えている。

立石寺
 
 律令初期、奥羽の状態が不安定(中央政権から見て)だったときに、中央政権がわざわざここに官寺を建てるなどという条件は、例外がわずかにあったにせよ、不可能に近かった。

 ところが、遠く平安初期にたてられたという立石寺は官寺である。その意味においても、めずらしいといわねばならない。

 芭蕉はこの山の奥の院まで登った。


司馬さんは奥の院へは登らず、根本中堂わきの秘法館の展示物を見ただけである。

←1853年建立の芭蕉句碑が立つ根本中堂
 

米沢城址

濠の桜はほとんど散っていた。

上杉家の軍旗。
 米沢城址は平城で、市街の中央にある。

 米沢城は、越後上杉氏が会津に移封されたとき、家老直江兼続が三十万石を領し、この米沢を治所として城をきずいた。それ以前の土豪の城館のあとが当時のこっていたであろうが、直江はそれを利用しつつ拡大したのかと思える。時代は豊臣期で、津々浦々にあらたにおこされた城郭はみな安土城以来の龍光で華麗豪奢になり、石垣を築きあげ、天守閣をつくったりした。

 しかし米沢は中世の館がみなそうであったように、堀をうがち、その土を掻きあげて土塁としたいわゆる「掻きあげ城」である。

司馬さんは宝物館の「洛中洛外図屏風」が見たかったようであるが、貸出中だった。

●林泉寺
 その境域は路上よりやや高く、境域に入って小径をたどってゆくとあちこちに小笹の茂るのが見え、松なども気儘に老いちらしていて、ただの雑木林に迷いこんだのかと思った。

実際に林泉寺をたずねてみると、司馬さんのこの記述とは全く違っていて境内は整然としていた。入口を進むと、左手に上杉直江公が植えたというしだれ桜があり、散りはじめていた。

桜の右手に墓所への入口があり、まっすぐ進むと上杉家の奥方などの墓があり、右へ進むと直江公の墓がある。直江公の墓をふくめ、山形県の文化財に指定されている墓がいくつかあった。

境内の一角で上杉鷹山公が奨励してはじまった笹野一刀彫を実演・展示販売している人がいて、しばらく話をしているうちに、見事な出来ばえの尾長鳥を買ってしまった。

春日山林泉寺は上越市にもあり、上杉謙信公の墓があるので上越市の方が知名度が高い。

←林泉寺入口。むこうに見えるのが、直江公お手植えのしだれ桜。

 

最上川
 長井の町の北までゆくと、大きな橋梁がかかっている。下は、地が大きくくりぬかれて黒々とした川が流れていた。最上川であった。

 さらに北へゆき、荒砥という土地で車を降りて、堤の上にのぼってみた。まことに大地の岩盤を鑿で削りこんだようにして川が流れている。流れが速い。水深がふかく水量が多いために決して気ぜわしく流れる感じではなく、水塊が水塊を無限に押しつづけるかのようにして流れている。その姿は風景というようなものではなく、人格というほかない大きな気迫を感じさせる。

 芭蕉がこの最上川を俳句にして以来、多くの文人墨客がこの川を見るために訪ねた。病身の正岡子規も、ここまできた。

荒砥橋のたもとで最上川を渡る列車を見たが、最上川の印象は、司馬さんが言うようなものとは少し違っていた。もう少し北の大江町柏稜橋から見た最上川(左の写真)は、司馬さんが見た感じに近かった。

春雨庵
 市中の一角に沢庵が流謫(るたく)された故地という所がある。

 門を入ると、正面に小さなわらぶきの農家が建っている。外観の美しさはみごとなもので、もしこれを沢庵自身が設計したものとすれば、大した人物のように見える。

後水尾天皇から、僧侶として最高の誉れである紫の衣を許されていた沢庵禅師が、寛永6年(1629)、紫衣事件(紫の法衣について幕府に抗弁書を提出した事件)で、幕府の怒りを買い、この地に流されました。その際、時の上山藩主、土岐頼行は、この沢庵のために草庵を寄進し、禅師はこれを「春雨庵」と名付け、寛永9年間までの3年間を何不自由なく過ごしたということです。現在の建物は、原型をその遺跡に再建したもので、茶室が併設されています。(上山市観光協会発行パンフレットより