司馬遼太郎の風景 |
梼原街道 |
佐川の町並み、東津野村の茶道、神在居の千枚田、三島神社、宮野々番所跡、
茶屋谷へ、越知面へ |
土佐(高知県)に梼原(ゆすはら)とよばれる山ふかい町がある。ユスハラは、土佐のチベットやきに、などと
いわれた。まことに気になる土地で、二十余年来、そこへゆきたいと思いつつ、果たさなかった。
司馬さんが国道197号線の梼原街道を旅したのは、1985年10月7日から9日であった。大阪空港から高知空
港へ。高知空港でタクシーをチャーターして、佐川の町をめざしたのではないかと思う。東津野村を経て、梼原に達
し、町内のあちこちをたずねた。梼原町の北にある県境の地芳(じよし)峠で四国カルストの風景を見て、松山へ向
かった。松山空港から帰途についたのであろう。
■ 佐川の町並み 2001.9.12
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佐川の旧城下は、南国でありながら、山陰の津和野旧城下に似ている。旧藩のころは、「村」とよばれていた。
いまも町並みの規模が大きくなく、古い家々の建て方が上品で、軒下ぞいに歩いていると、雪寂び(ゆきさび)した翳(かげ)さえ感じられる。むろん土佐にあっては雪は縁がうすい。
この町の町並みのなかも、美しいのは酒造業の建物がたちならぶ小路だろう。堂々たる長屋門がのこっていたり、ナマコ塀の屋敷や、きめのうつくしい白壁の家が軒をならべていたりする。 |
佐川の町並みの美しさは、司牡丹酒造の賜物である。青山(せいざん)文庫という記念館から緩やかな坂道をく
だると、そびえるばかりの司牡丹酒造の白壁の建物が見えてくる。建物の中では、フォークリフトやベルトコ
ンベヤーなどが動いているが、建物の外観は昔ながらである。
■ 東津野村の茶堂 2001.9.12
東津野村の当別峠(今はトンネル)を西にこえて、山中の小渓流をわたると、高野という在所がある。
山中な郵便局がある。道路の左側に茶堂が立っていた。
茶堂は、むかし津野山八ヵ村の道という道にあったらしい。いまもいくつか残っている。屋根は本ぶき
の茅ぶきで、ぼってりとぶあつい。それを五本ばかりの柱がささえていて、戸はなく、吹きさらしであ
る。床は、ひくい。
古代、この世に幸福をもたらす霊物は、他からやってくるとされていた。他とは、理想的にいえば、海
のかなたの異郷である。幸福の神は、そこからくる。
山里には、海がない。はるかな地からくる旅人を、津野山八ヵ村のひとたちはよき人であるとし、ある
いは幸福をもたらすものを背負ったひとびとであるとして、かれらをムラはずれの茶堂で接待したので
はあるまいか(茶堂はかならず村はずれにあるそうである)

司馬さんが見た高野の茶道。 茶道のすぐ下の神社にある高野廻り舞台。
梼原から城川にかけての道沿いには、まだたくさんの茶堂が残っていた。高野の廻り舞台のような農村歌舞伎
舞台も四国には多い。今までに、香川県で2か所、徳島県で1か所、高知県で3か所の舞台を見たが、いずれ
も茅葺きであった。一度、農村歌舞伎を見てみたい。
■ 神在居(かんざいこ)の千枚田 2001.9.12

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陽が、落ちようとしている。このため、無数の横縞にきざみこまれた千枚田の斜面は、薄墨をかけたように全体が暗くなっていた。そのくせ、田の頂きばかりは、残りの陽の色が滴って、秋のこがねにかがやいている。
目の前に、プラチナ色に光るものがあり、おどろいて目を近景に移すと、路肩ですすきがゆれているだけだった。
すべては黄昏の光と翳(かげ)がつくっている色調なのだが、光悦の金蒔絵を見るように豪華だった。
司馬さんがここをおとずれたのは、10月8日。夕暮れが迫っているころだった。左の画像を撮影したのは9月12日の午後4時半。司馬さんがおとずれたときは、もっと稲の色が黄金色だっただろうし、もっと薄暗くなっていたであろう。
光悦の金蒔絵とは、司馬さんらしい表現だ。 |
■ 三島神社 2001.9.13
三島神社は、市街地の北のはずれにある。右側は丘で、丘上に大きなハリモミの木が天を衝(つ)いて
おり、おあえつらえむきのように、月齢五日ほどの月がかかっていた。
三島神社の拝殿・社殿は明治の建築だという。破風にも、その下の下部構造にも、竜やら雲、瑞鳥とい
ったふうの彫刻が過激なほどにほどこされていて、大工の腕をたっぷり見せている。

三島神社は国道から梼原川を渡った対岸にある。司馬さんは、ここで夕食のもてなしを受けた。司馬さん
は、田舎料理に大満足し、夕食後、伝統の津野山神楽を見た。
■ 宮野々番所跡 2001.9.13
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広野を北に過ぎると、そこが宮野々だった。山峡ながら、河畔にわずかに水田がある。道路は水田よりわずかに高い。その道路わきに石垣をごく低く組みあげた宅地跡がって、大きな自然石に「宮野々関門旧址」という文字が刻まれていた。
宮野々番所跡は、梼原町の中心部から四万川沿いを北へ約5kmの地点にある。坂本龍馬が歩いた「脱藩の道」もここを通っていたが、龍馬たちは、ここをすり抜けて、九十九曲峠を越えた。 |
■ 茶屋谷 2001.9.13
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宮野々から北へめざした。道路わきに、四万川渓流がながれている。いよいよ山が深いが、渓流が多いため、山中の小集落も多い。茶堂があちこちにあり、”舞台”というものがる。独立したカヤぶきの建物で、かって村民たちが手製の歌舞伎をたのしんだ劇場である。もっとも桟敷(さじき)は露天である。
県道から川をはさんだ対岸の高い位置に舞台があった。確か、上成という集落だった。司馬さんが見たのは、おそらく、この舞台ではないかと思う。 |

道が途切れるあたりに茶堂。 円明寺の舞台。 |
茶屋谷という梼原の北限にちかい谷までゆき、円明寺という禅宗の寺に寄った。
北のほうにカルスト高原がそびえ、伊予境いになっている。むかし姫草番所という関所があったあたりである。
円明寺の境内に、舞台が保存されていた。いまは、習字の塾としてつかわれているらしい。
茶屋谷までは、梼原町中心部から約10km、宮野々番所跡からは約5km。かなり山深いところであった。 |
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海の神である海津見(わたつみ)神社という古社がまつられていた。
もともとこのあたりの地すべりを食いとめるてもらうために、竜王をまつったのがはじまりであるらしく、江戸期は、竜王権現という仏教神として崇敬されていた。
石段をのぼると、りっぱな社殿であることにおどろかされた。本殿・拝殿ともに文化元年(一八○四)の建築で、これも長州大工のしごとである。
海津見神社は竜王宮と呼ばれている。境内には船が奉納されていた。このような山深い地に、海神がまつられていることが不思議な気がした。 |
■ 越知面へ 2001.9.13
上本村(かみほんむら)というやや広やかな水田地帯に入ってゆくと、山麓の段々畑の上に、
草ぶきの家屋が、三戸七棟、指定保存されていた。大小の屋根のかさなりぐあいが造形的に
もうつくしく、梼原の心をはればれと感じさせる景色だった。梼原は、どこか童話的な里で
もある。

茅葺きの集落は大きく変貌していた。 近くにある善福寺の千年杉(樹齢800年)
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