天主堂巡礼 浦上天主堂 長崎市本尾町

   
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                  哀しみの聖母

  1865年の潜伏信徒の発見以降、幕末から明治初期にかけて西海全域にわたってキリシタン
 の大迫害がはじまる。
 
  1867年の「浦上四番崩れ」によって、浦上村の3394名の信徒たちは、富山以西の21
 藩に流配され、明治6年(1873)のキリスト教解禁まで数々の苦しみに堪えたが、この間、6
 13人の殉教者を出した。浦上へ帰ってきた信徒は、住む家もなくその生活は困窮を極めた。明
 治12年に仮聖堂を建造したが、信徒の増加によりミサのときは聖堂からあふれる有様だった。

  フレノ神父の献身的な努力とその遺志を受け継いだラゲ神父によって、大正13年に本聖堂が
 完成した。その後、大正14年に双塔を増設して、現在とほぼ同じ形式の東洋一の大聖堂が完成
 したが、昭和20年8月9日午前11時2分の原爆投下によって、15万人が殺傷され、聖堂も
 崩壊して浦上は焦土と化した。

  昭和21年、焼け跡に木造の仮聖堂を建造したが、鉄川工務店請負による昭和34年の本聖堂
 完成までに13年の歳月を要した。聖堂正面には、原爆で焼残ったフレノ神父作の「哀しみの聖
 母」「使徒聖ヨハネ」と、原爆で破壊されたものを複製した「十字架上のキリスト」の3体の聖
 像が掲げられている。

  浦上は信徒数9000人を越える日本一の大教区であるが、400年にわたる浦上キリシタン
 の歴史は、建設と破壊、政治と宗教の葛藤の中で翻弄されながら信仰を守り続けた名もない民衆
 の苦難の歴史であった。
1991/10/16
   

教会入口の「悲しみの聖母」と「使徒聖ヨハネ」のレプリカ。


天主堂への坂道の石垣の上には、原爆で破壊された像の一部が展示されていた。


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天主堂巡礼]