| 司馬遼太郎の風景 |
甲賀と伊賀のみち |
伊賀上野、西高倉、御斎峠、多羅尾、信楽 02.5.27-28 CAMEDIA |
「梟の城」という長編小説の最初の出発を伊賀盆地にしようかと思い、ちょうど菜種梅雨といったこの季節にこの土
地にやってきた。昭和三十二年だったかと思うが、伊賀盆地はきょうとおなじく煙雨につつまれていた。もっともあ
のころは観光ブームも造成ブームもなかった。日本の山河は日本人とその暮らしをはぐくんできた農耕文化がまだ生
(き)のままで息づいていて、伊賀盆地のどこを歩いても美しかった。
司馬さんは、「梟の城」の取材で伊賀盆地をおとずれた際に、御斎峠へ行きたかったのであるが、道が悪く
て果たせなかった。御斎峠へは行けなかったが、峠の名前が気に入って、「梟の城」の最初の場面を御斎峠
とした。伊賀から御斎峠を越えて甲賀へ、司馬さんの思いが遂げられたのは、昭和48年(1973)の5月
2日だった。今、御斎峠の道は快適な舗装道路になっている。
■ 伊賀上野

寛永11年(1634)「鍵屋の辻」で、荒木
又右衛門の36人斬りで知られる仇討
ちが行われた。 |
服部川を越えると、ほどなく国鉄の伊賀上野駅である。駅舎は日本風の建築で、ねずみ色の瓦で葺かれ、外観は簡潔ながら力強い線をもっている。
その駅前のたばこやで道をきくと、店番の若い主婦が道を知っていた。御斎峠という地名ではわからなかったが、途中の西高倉という村の名で、反応してくれたのである。

JR伊賀上野駅
わたしは、地図にしたがって、道標が立つ「鍵屋の辻」の十字路から北へ西高倉へ向かった。司馬さんも「鍵屋の辻」を通ったのではないだろうか。 |
■ 西高倉

西高倉の田園風景。 補陀落寺へ十五丁の町石。 |
この道はよほど古い道ですか、ときくと、老人は、よほど古いやろな、あそこに町石があるさかいな、と指さしてくれた。なるほど道を少しくだったあたり、谷に面した草むらの中に、町石が遺っている。
町石は御斎峠への道沿いに点々と残っていた。町石のそばに立っている説明板を見ると、昭和8年に国指定史跡に指定されている。補陀落寺は今はない。 |
■ 御斎(おとぎ)峠

御斎峠跡の記念碑。 滋賀県信楽町の標識、伊賀甲賀の国境。 |
御斎峠の頂きに達したのは、午後4時10分だった。「御斎峠跡」という銘を入れた自然石の大きな碑が路傍に立っていた。「跡というのがいいですね」と、編集部のHさんがいった。
伊賀の御斎峠のむこう側の道がゆるやかな降りになりはじめると、そこは近江甲賀である。 |
■ 多羅尾

御斎峠を降りて最初に目にする田園風景。 |
御斎峠を甲賀へ越えれば、最初の山里が多羅尾である。多羅尾までくると、山の水はもう細流になっている。山中ながらもこの細流によって早くから水田耕作が発達していたらしく甲賀衆のなかでも有力な一族である多羅尾氏が育つのである。

多羅尾の道標、京の文字が見える。 |
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■ 信楽(しがらき)
山道を降りて、やがて信楽の盆地に出た。町のな
かばは建材用や工業用の陶器を作り、半ばは、田
舎の料理屋などの玄関に置かれているたぬき、が
ま、ほていさんといったものを焼き、あるいは火
鉢や植木鉢といったものを焼いている。
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紫香宮址は赤土の台上にあり、まわりは森である。雨のせいか、森の中の小径にも宮址にも人影はなかった。石段を踏んで中門址へのぼると、思ったよりきれいに整理されていて、礎石が転々と残っている。
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