| 司馬遼太郎の風景 |
信州佐久平みち |
上田市別所、信濃国分寺跡、東部町海野宿、小諸懐古園、浅科村
02.9.18-19 CAMEDIA E-100RS |
知人が、信州の佐久で療養している。様子を見舞わねばならないと思ってから、つい日が経ち、その見舞いには須
田画伯もぜひ自分も加わりたいということで、病人には悪いと思いつつ、見舞いを兼ねて千曲川ぞいの村々を見て
歩こうと思い立った。私は信州について知るところがない。
司馬さんの、この旅の引き金になったのは友人の見舞いだった。1976年7月25日から3日間の夏の盛り
の旅であった。新幹線で名古屋まで行き、中央西線に乗り換えて長野で下車し、タクシーで最初の目的地であ
る上田に向っている。旅の終りは望月町であるが、そこから、どのようにして大阪へ戻ったかは書かれていな
い。信越本線で長野まで戻り、中央西線、新幹線と乗り継いで帰ったと考えられる。
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上田市別所
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常楽寺は、丘陵の中腹の台上にある。台上までは、石段を登る。のぼりつめると、本坊がある。きれいなわらぶきの屋根をかぶっていた。
寺域は緑につつまれ、あたり一面に蝉しぐれが降りつづけて、もうそれだけで十分な感じだった。
司馬さんがきれいだといった本坊の屋根を見たかったが、葺き替え中だった。裏の林から見ると、葺き替えの様子がよく見えた。
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この同じ丘陵に、安楽寺がある。境内は禅寺らしく清雅で、桧皮ぶきの本堂が特に美しい。本堂の横手から裏山への道をのぼると、有名な八角の屋根をもつ塔がある。
本堂前にある円錐形に刈り込まれた木が印象的だった。

塔へ行く途中の地蔵。司馬さんも
目にしたことだろう。 |
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信濃国分寺跡
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地図では、国分寺跡は上田の市街地よりやや南で千曲川の東岸にある。ゆくと、河原に、信濃国分寺址という大きな石碑が立っている。
史跡公園などと仰々しく銘うたれているが、地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台がある程度で樹木といえるほど樹木はなく、その場に立っているだけで心が荒涼としてくる。「これは、公園ですか」と、須田画伯が、どう写生していいか途方に暮れた表情で、ふりむいた。
信州人は神経のゆきとどいた感覚を持っている。そのことは定評のあるところだが、どうも諸事品下がってきた日本のなかにあって、信濃人までがさつになってきたということであろうか。
今までに史跡公園をいくつか見たが、ここの公園では司馬さんと同じ感想を持った。 |
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東部町海野宿(うんのじゅく)
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国分寺跡から、千曲川のそってわずかに南にゆくと、本海野宿とよばれている集落に入った。
各戸にうだつを上げた宿場の宿が道路の両側にならび、道路の片側に、石積みでつくられた溝が流れている。馬の脚を洗うための流れで、いかにも風情がある。
海野宿が、重要伝統的建造物群保存地区に指定されたのは1987年、司馬さんがたずねてから11年後のことである。 |
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小諸懐古園

司馬さんがそばを食べたのは、おそらく左手の店。 |
小諸城の城内は、懐古園という公園になっている。その前の広場に古い蒸気機関車が置かれていて、まわりに大衆食堂が軒をならべ、どいうわけかパチンコ屋並みの大音響で音楽が拡声放送されていて、足がひるんでしまった。
司馬さんは食堂へ入るが、女店員のぶっきらぼうな応対にあきれてしまう。出されたそばには、値段の安く、味もよく、かなり満足している。
大音響の拡声放送とぶっきらぼうな女店員の応対にがっかりしたのか、懐古園には入らずに素通りしてしまう。「藤村の詩さえなければ、小諸城址はいまも閑かだったであろう」と書いている。
わたしがたずねた日は、懐古園のあたりはとても静かだったが、懐古園へは一度来ているので今回は中へは入らなかった。 |
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浅科村

千曲川の渡し場として栄えた塩名田 塩名田平からは浅間山がよく見える
の旧道。 |
このあたりは浅科というのが大きな地名らしく、字としては街道筋に八幡(やわた)などという集落もある。
いずれも古街道の宿場といった古びたにおいがあって、むしろ海野宿あたりよりも町並みとしての景観がすぐれている。
須田画伯はしばしば車をとめて、写生をした。 |
現在の浅科村には、かって、千曲川をはさんで中山道の塩名田宿と八幡宿があった。司馬さんが浅科町をおとずれたのは26年前、当時、浅科には海野宿よりも景観のすぐれた町並みがあったという。浅科をたずねてみたが、海野宿に匹敵するような町並みはなかった。だとすれば、バブル経済のころに失われたことになる。 |
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