| 司馬遼太郎の風景 |
大和・壷坂みち |
橿原市今井、高取町高取城趾・壺坂寺 2000.9.12-13 |
奈良県の地図をみていると、青葉の壷坂(阪)山へ登ってみたくなった。
さらにその奥の高取山にも登ってみたい。山頂には自然林のなかに、近世初頭の典型的山城が遺ってい
る。中世の山城とちがい、構造性が高いところが佳く、それがうずもれるようにして歳月に堪えている
のである。
そう考えているうちに、欲が出てきた。中世の商業都市で、いまは町そのものが遺物の古色を帯びて遺
っている今井の町にも寄ってみたくなったのである。しかしこれらを結びつけても、名前の定着した古
街道というぐあいにはならない。何街道というべきであろう。
大和路を歩いていると、村の四つ辻などに、「右、壺坂みち」などという、赤茶けた花崗岩の道標がの
こっている。それにならって、ここだけの仮りの名称として、大和・壺坂みち、とよぶことにする。
司馬さんが、橿原市今井町から、高松塚にちょっと立ち寄って高取城趾をおとずれたのは、1973年か1974年ではないかと思う。司馬さんが、高取城趾から降りてきて壺坂寺にさしかかったのは6時すぎで、三重ノ塔へゆく門は閉じられていた。今は、門を入るとすぐに受付があり、ここで拝観料500円を払わないと境内には入れない。 |
■ 今井の環濠集落
「今井千軒」と、戦国期にいわれた大和の商業都市が、ほぼ旧観を偲ばせる家並で残っているはずなのだが、
私はまだ行ったことがない。
私は、戦国期の堺の富商で茶人でもあった今井宗久(そうきゅう)がここ大和高市郡の今井庄(現橿原市)の出
身だということ以外に、この町については知らない。
どんどん入ってゆくにつれて、本瓦ぶきのずっしりした町家が軒をならべ、どの家も百年前後は経っている
ようで、ふと昔にまぎれこんだのではないかという錯覚さえ覚える。すべてが瓦ぶきであるために室町末期
とまではゆかなくても、江戸期に舞いもどったような感じをもつ場所がいくつもある。

江戸時代にタイムスリップしたような今井の町並み。1650年建造の今西家、まるでお城のようだ。
■ 高取城址
高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。
その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正
面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳している。それが、自然林と化した森の中に苔む
しつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の
気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。

■ 壺坂寺
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城の峰を降りてふもとに近づくと、やがて壺坂寺になる。「西国六番 壺坂寺」という大きな石碑が立っている。壺坂の坂は、地図では阪で、電鉄会社のポスターなども阪になっている。しかし浄瑠璃などでは坂が多いようだし、境内の手洗の石の面にも壺坂寺と刻まれている。
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