司馬遼太郎の風景
2003

熊野・古座街道

雫の滝・獅子目峠・真砂・一枚岩・潤野・明神の若衆宿・河内神社・古座
03.9.22 CAMEDIA E-100RS   

 日本には瀬が多く、瀬の音についてはわざわざせせらぎという独立したいい言葉があるほどだが、私はこの古座川の川船に乗るまで、せせらぎをいう音響がどういうものか知らなかった。むろん私も半世紀この地上で厄介になっているからには、川や瀬やせせらぎともいうべき音は聞いた。

 古座川の川床というのは、私が見たかぎり、その川の長さの何割かは岩盤でできているようであった。盛り上がって流れを浅瀬にしている岩盤もあれば、水の力で奇妙な模様が刻まれている岩盤もあり、ときに太陽を慕うようにして露わに水面上に出、ときに強烈な水流の切削機に削り込まれて深瀬をなしている箇所もある。せせらぎの場所はそのような箇所でなく、川床の岩盤が水面下すれすれにまでたかだかと盛り上がり、その上に南瓜ほどの大きさの丸石が無数に載っている場所で発生するようであった。清流が、薄く速く激しくその無数の丸石の上を奔りに奔るときに、ちょうど何百という箒や琴を乱れ弾きに弾いているような音をたてるのである。


司馬さんが熊野・古座街道を旅したのは、1975年4月27日、28日である。天王寺駅午後7時発の紀勢本線「きのくに14号」で南下し、白浜に1泊した後、翌朝、すさみから古座街道に入った。


関連サイト→ 古座川町役場

   

  
   鮎捕獲の堰を作っていた(三尾川橋から)。
雫の滝

   
 いよいよ道路は高みへのぼってゆくようだったが、やがてのぼりきったかと思われるあたりで、右手の崖の下の渓谷の様子がにわかに変った。車からおりると、崖のはるか下に湊布がとどろいていて、そのひびきが、立っている靴の底につたわってくるような感じがする。道路上(つまりは崖の上)からのぞくと、緩傾斜の湊布があり、大岩・小岩が折りかさなっていて、その上を水がすばやく奔っている。落ちこむときに飛沫があがり、その飛沫が夙にあおられて崖の上の道路上にまで吹きあがってくる。

 「雫の滝」と、路傍の標識が出ている。道路上まで雫が舞い上がってくることからそういう名がついたにちがいない。

今から30年ほど前は道路から滝が見え、その雫が舞い上がっていたというが、道路の位置が代ったのか、木が伸びたのか、道路から滝は見えなかった。左の画像は、道路から遊歩道の石段を降りて、川原から撮影した。
   
獅子目峠

獅子目隋道。工事のため片側交互通行だった。
   
 登りきった峠が、地図によると、獅子目峠だった。峠みちだけで四キロほどもあるから、相当大きな峠であるといえる。周参見川(西流)は、もはや存在しない。峠をくだると、東流する細流が道路わきに出てくる。古座川の上流の一つである佐本川である。

 
 七川貯水池沿いの佐田簡易郵便局
   
真砂

舟着場のあった辺り。
   

舟着場跡に立つ説明板。
   
 遡ってくる川船は、熊野の奥地への食糧、雑貨などを積んでくる。真砂で陸揚げされると、牛車に積みかえられ、山々に点在する里にむかってそれらを運んでゆくのである。

 山里では、ピンチョウ炭を焼いている。そのピンチョウ炭がこの真砂に集積され、空になった川船に積まれて、古座へくだってゆく。古座の海からは大きな船に積みかえられて、その木炭が東京や大阪に運ばれてゆくというかたちなのである。

真砂は七川貯水池の少し下流にある。真砂には、かつての反映をしのばせるものは残っていなかった。

   
一枚岩

   
 この岩の大屏風の寸法は、幅が二五〇メートル、高さは二〇〇メートルほどであるという。岩の色は、黒っぼい鉄さび色で、須田さんは仰ぎながら、

「喜左衛門井戸の色をしていますね」といった。私は京都の大徳寺の孤蓬庵にあるというその茶碗をみたことがないが、もしこの岩の質感や色彩とおなじものなら、その茶碗はとほうもないものにちがいないと思った。

一枚岩のあるあたりの古座峡には、このような岩山がいくつかある。その中でも、この一枚岩は圧倒されんばかりの大きさである。38ミリのレンズで撮影したが、全体が何とかファインダーに収まった。



   
潤野(うるの)

   
川むこうは(古座川筋の規模で言えば)遥かであり、木挽の大鋸の刃のようなぎざぎざの峰々が、その逢かさを区切っている。山ふもとに、集落があるのが見えた。集落までは目測で五〇〇メートルほどであり、要するにそれだけの平野なのである。

七川ダムができるまでは水量が多かったと思われるが、潤野で古座川は細い流れになっている。その流れに、潜水橋(沈下橋)がかかり、野の向こうに集落があり、その背後には、中国桂林にあるような三山冠(さんざんかん)が見える。

この景色に出会ったとき、しばし見とれてしまった。あの集落で暮らすとどんな気分だろうか、と旅人の勝手な感傷にふけっていた。


   
明神の若衆宿
 Kさんが車をとめさせて、車窓から五〇〇メートルほどむこうの野にある邸を指さした。家は、まがきをめぐらしている。建物は大正時代の木造洋館風で、ミルク・コーヒー色の塗料がぬられていた。

 「あれが、この明神の若衆宿だったんです」と、Kさんが言われたときは、すこし意外だった。かつて村有の建造物だったのが、払い下げ                                                                       られたのか、いまは個人の所有になっている。

事前調査が不十分で、明神の若衆宿の建物を見つけられなかったが、古座川町役場の近くに互盟社という洋館があり、この建物がかつては若衆宿だった。

   
河内神社

   
 崖っぷちの棋の樹のあいだから川をのぞいてみると、なるほど川が岐れて、形態として河内を為している。瀞の青みはまことに碧澤というにふさわしく、その青い流れに洗われて河中に一個の岩礁が盛りあがっている。

 その岩礁が、どうやら神の憑代になっているらしい。古代シヤーマニズムが、古代形態のまま息づいているというのは、日本でもめずらしいといえるのではないか。

古座川町の観光冊子によれば、この島は清暑島(せいしょとう)といい、島全体が河内神社と呼ばれているという。





   
古座
 高池をすぎると、ほどもなく古座の町に入った。この古座街道沿いの家並は、ほとんど大正期から時間が停止しているように舌寂びている。

「私の子供のころとほとんど変りません」といって、Kさんが、めずらしく昂奮した声をあげた。古座川の川筋七里のあいだの字々のひとびとは、買物などはこの町へきたという。

←古座川河口右手が古座の町並み。
天然の鮎はスイカに似た匂いがするというが、古座川の河口に立つとなぜかスイカの匂いがした。